聖母の被昇天(ルカ1:39-56)

聖母の被昇天の祭日を迎えました。マリアが胎内の子を身ごもったと知り、先に身重になっていたエリザベットにあいさつに行く様子が描かれています。今年は、エリザベットがマリアに語ったことばを鍵にして、朗読箇所を読み進めていきたいと思います。

エリザベットはマリアの訪問を最大限の賛美で迎えました。「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。」(1・43)そして、主が2人に目を留め、2人のために偉大な働きをしてくださったことをたたえます。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう。」(1・44)

わたしはこの、エリザベットの最後のことばがとても心を打ちました。マリアとエリザベットの2人こそ、このことばにふさわしい人物です。「主がおっしゃったことは必ず実現する。」堅くこのことを信じた偉大な女性だったと思います。

さらに、このことばは旧約の人物をも思い出させます。アブラハムは、子どもに恵まれない時期に、主を信じて息子イサクを与えられました。ノアは、洪水が起こることをだれも信じていない時に主に命じられたとおりに準備して、命を救われました。モーセは、エジプトの軍隊がイスラエルの民を紅海まで追ってきて、絶体絶命のときに主を信じて民を無事に渡らせました。

マリアの心にも、エリザベトの確信に満ちたことばは届いたことでしょう。マリアが続けて声を上げた賛美には、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた人は幸い」という思いが、賛美の全体に行き渡っているからです。

エリザベトの確信がマリアの賛美ににじみ出ています。いくつか拾ってみましょう。「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」(1・48-49)「身分の低い者を高く上げ(てくださる)」(1・52)「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。」(1・54)主がおっしゃったことは必ず実現する、そのとおりになる。マリアもまた、実感があったのです。

では、出来事が起こった時よりも後の時代の人々にとって、エリザベトとマリアの体験はどのような意味があるのでしょうか。マリアの次の言葉に注目しましょう。「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。」マリアははっきりと、「後の人々、いつの世の人も」と言っています。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた人は幸い」という思いが後の人々にも受け継がれ、たたえられることになると言うのです。

実際に、マリアの思いは受け継がれているのでしょうか。2000年経った今でも、マリアとエリザベトの確信は正しいと証明されているのでしょうか。間違いなく、マリアの思いは受け継がれ、今の時代にあっても「主がおっしゃったことは必ず実現する」と証明できます。

そこで、今日は8月15日、終戦の日でもありますので、戦争に関わる歴史の中で、例を挙げたいと思います。長崎にやってきた修道会の司祭に、マキシミリアノ・マリア・コルベという司祭がいます。彼はヨハネ・パウロ2世の在世中に聖人となりました。

コルベ神父の最後は、皆さんもある程度はご存知でしょう。ナチスによって強制収容所に連れて行かれ、脱走者が出たことで見せしめで殺される人が10人選ばれた時に、1人の人の身代わりを申し出ました。

彼は、死にたくないと言って憐れみを乞うていた人の身代わりになっただけではなく、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ11・25)というイエスのみことばに絶対の信頼を置いていることを証ししたのです。希望のない強制収容所の中で、「主がおっしゃったことは必ず実現する」という希望を生き抜いたのです。みごとに、現代にあってマリアとエリザベトの確信を受け継ぎ、証ししていると思います。

同じく、強制収容所の中で、ガス室で処刑された別の修道女がいます。エディットシュタインというカルメル会の修道女です。コルベ神父はポーランド人で迫害を受けましたが、エディットシュタインはユダヤ人だったことでナチスの迫害を受けました。

エディットシュタインには神の不思議な導きがありました。彼女はユダヤ人でしたから、もともとは純粋なユダヤ教徒でした。けれども、イエス・キリストの中に真理を見いだし、キリスト教に改宗し、さらにカルメル会修道院という、社会から遠く離れることになる場所に入ったのです。彼女もまた、現代にあってイエスのみことばは必ず実現すると信じ、証しを立てたのです。

60数年前の人々が、過酷な環境の中で立派な証しを立ててくれました。わたしたちは、それに比べればはるかに証しをしやすい環境の中にあります。「主がおっしゃったことは必ず実現する」と、堂々と宣言できる自由な社会の中に生きています。そこでわたしたちも、マリアとエリザベトに倣い、「主がおっしゃったことは必ず実現する」との思いを証ししたいと思うのです。

ところで、「主がおっしゃったことは必ず実現する」と言っても、具体的な例が思い付かない人もいるかも知れません。何をたとえに引いて、証しをすればよいのでしょうか。2つ、示しておきましょう。1つは、去年の列福式です。188人の殉教者が、神のもとで、幸いな状態に置かれていることを教会は正式に宣言しました。

わたしたちの先祖が、わたしたちの時代に対して、イエス・キリストを信じる者の幸いを証ししてくれました。わたしたちが188福者を堂々と証しするなら、わたしたちもまた「「主がおっしゃったことは必ず実現する」と証しをする人の仲間です。

もう1つ考えてみました。8月15日、終戦の日は平和を願う日でもあります。イエスのみことばを信じて生きると、今一度確認するまたとない機会です。そのみことばとは、ヨハネ福音書の一節「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」(14・27)です。

わたしたちが平和のために力を尽くすなら、イエスが、平和を与えてくださる。この信仰に生きることは、すばらしい証しになると思います。まだ平和は実現していません。イエスが与える平和は、どのようにしてもたらされるのか分かりません。けれども、「主がおっしゃったことは必ず実現する」と信じて生きるまたとない機会です。

すでに手に入れたもののためではありません。まだ手に入れていないものを、あたかもそれはすでにあるかのように、確信して生きるのです。こうして現代のわたしたちは、聖母被昇天の祭日にマリアとエリザベトの賛美を受け継いで、「主がおっしゃったことは必ず実現する」ことの証し人になります。

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ちょっとひとやすみ
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▼8月15日は確かに「ふくれ饅頭(まんじゅう)」を各家庭が準備して食べていた。聖母被昇天に食べる、長崎ならではの食べ物である。ただ、それ以外の記憶がないのはなぜだろう。おそらくミサに出かけているので、おろしたての服を着て出かけているはずだが、新調した服の思い出はクリスマスにはあっても8月15日にはない。
▼思い出そうとしても出てこない。もし出てこないのであれば、これからの残りの時間で、思い出を作るようにしたほうが良いかもしれない。8月15日に、何かの形でふだんと違った過ごし方をして、この日を記念する。あるいは、この日を特別な形で過越していく。そんなことを考える必要があるかもしれない。
▼自分としては、戦争とか終戦とかの関連は8月15日には薄い。これもまた、記憶をたどるのではなく、記憶を刻んでいく作業が必要なのだろう。なぜ8月15日が終戦となったのか、なぜ8月6日、8月9日に原爆が投下されたのか。たまたまだったのか。そんなことを自分なりにもう一度学び直して、自分の中での記憶を刻まなければならないと感じる。
▼歴史は観る角度によって、さまざまな解釈が可能だと思うが、12月8日に真珠湾攻撃が始まり、8月15日に終戦を迎えるというのは、キリスト教の観点で考えると偶然では片付けられない。歴史を見守っている神のご計画が、その中にあったと思えてならない。ちなみに12月8日は無原罪の聖マリアの祭日、8月15日は言わずと知れた聖母被昇天の祭日である。聖マリアの祭日に、神はどのような計画を盛り込んでいたのだろうか。
▼頭はぱっぱと切り換えなければ先に進めない。1時間後には、明日の年間第20主日の説教に取りかかる必要がある。このコーナーを書き終われば、スイッチを入れ替える。仕事柄それができなければやっていけない。わたしの体内のどこに、リセットスイッチはあるのだろうか。体外にあるのだろうか。もしかしたら、海上にあるのだろうか。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===