年間第19主日(ヨハネ6:41-51)

今年の年間第19主日は、8月9日は、長崎原爆の日と重なりました。わたしよりも皆さんのほうが詳しいのですが、原子爆弾の投下によって、たくさんの方が亡くなられました。

1つの話をわたしは聞いております。爆心地にいちばん近かった浦上教会ではこの日ゆるしの秘跡が行われていました。お祝い日前の告白、すなわち8月15日聖母の被昇天の祭日を迎えるためにゆるしの秘跡の場を設けていたのです。

浦上教会に籍のあるカトリック信者は当時1万2千人いました。そのうち8千人が、瞬時に亡くなったと言われています。さらにその中の何百人かが、浦上教会に集まってゆるしの秘跡を受けていたのです。

福音朗読に入りましょう。今日の朗読箇所は、始めと終わりを同じ言葉で挟んでいます。「わたしは天から降って来たパンである。」(6・41、また6・51)ヨハネは、このような強調のしかたで、イエスがどのような方であるか考えさせようとしています。天から降って来たパンであるイエスにつながることが、本当に生きるということなのだと分からせたいのです。

浦上教会で原爆投下の瞬間ゆるしの秘跡が行われていたことを話しましたが、当然ゆるしの秘跡を受けるために集まっていた人々は、聖母の被昇天の日にミサにあずかり、聖体を拝領するための準備をしていたわけです。

そう考えると浦上教会の人々は、「天から降って来たパン」であるイエスに近づこうとしていた人々だとはっきり言うことができます。言い換えると、この人たちは、イエスが言われたみことばを十分理解していたということです。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(6・51)

長崎の空に落ちた一発の原子爆弾で、たくさんの人の命が奪われました。命は取り戻すことはできませんが、その人々の中に、他の人々とは明らかに違った行動を取って、命を奪われた人々がいたのです。

それは、教会に行って聖母の被昇天の祭日のために心の準備をしていた人々のことです。この人々は、どんな困難があろうとも、教会に行ってゆるしの秘跡を受けたかった人々でした。イエスが言われた「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」というみことばに全幅の信頼を置いていた人々が、当時の8月9日、長崎の1つの教会に集っていたのです。

わたしは、あの日浦上教会でのゆるしの秘跡にあずかりに行った人々の生き方は、決して滅びない生き方だと思います。体の命は奪われるかも知れません。けれども、どんな恐怖も、どんな脅しも、浦上教会に行く人々の足を止めることはできませんでした。それはすなわち、「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」とのみことばに信頼を置く生き方は決して滅ぼすことはできないと、証しをしてくれたのだと思うのです。

そこで、わたしは2つのことを考えました。1つは、自分自身の生き方です。わたしは、イエスのみことばに絶対の信頼を置いて生きているだろうかと考えました。まず心に浮かんだのは、病人訪問の場面でした。病人の部屋に行くと、まず回心の祈りを唱えて、次に福音書の一節を読み、主の祈りを唱えてから聖体を拝領します。福音書の一節に、わたしはよく今日の箇所、それも終わりの部分を選んで朗読しています。

福音書の一節を読む時は、「イエスは言われた」と前置きしてから朗読をしていますが、「わたしは、命のパンである」(6・48)と朗読しながら、わたしの中で、「確かにそうだ。命のパンであるイエスに、わたしは活かされて生きている。これは疑いようがない。」そんな気持ちで聖体拝領する病人のために朗読をしてあげているのだろうか。あらためて考えてみたのです。

また、自分自身の反省として次のことも浮かんできます。「イエスは、命のパンである。」この確信がわたしにあるのであれば、わたしは本当に生き生きと日々を暮らしているだろうか。命のパンをいただく、それも、ほとんど例外なく毎日いただいていながら、わたしの生活は生き生きとしたものになっているだろうか。実感があれば問題ありませんが、迷いがあるとすれば、なぜなのか。考えさせられたのです。

2つめとして、イエスのみことばには違う形での呼びかけもあると感じます。それは、「わたしたち・共同体として、社会に対してイエスのみことばに絶対の信頼を置いて生きているだろうか」ということです。浦上教会で、ゆるしの秘跡を受けようとしていた人々は、あの日の午前中、防空壕にも留まらず、畑にも行かず、工場にも行かず、教会に行ったのです。

行くことのできた場所がいろいろあった中で、1つだけ選んだのが教会に行ってゆるしの秘跡を受けることでした。6日後、聖母の被昇天にミサにあずかり、聖体を拝領することを思い描いて、あの日教会に行ったのです。それは、社会に対して、イエスのみことばに絶対の信頼を置いて生きているという証しになりました。

1人では大きな証しを立てることはできなかったかも知れません。けれども浦上の人々は大勢で、おそらく何百人単位で、社会に対して証しを立てたのです。「イエスは命のパンです。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きるのです」と証しを立てたのだと思います。

社会に対して証しを立てるためには、キリスト信者すべての協力が必要です。キリスト信者のだれもが、命のパンであるイエスをいただいて生きていることを、右にも左にもそれずに証しをする必要があります。

「だれそれさんは確かにイエスを必要としている人だが、別のあの人はキリスト信者だけれどもイエスを必要としていないじゃないか。」そう反論されないように、社会に対して力強い証しになるように、答える必要があります。皆が「わたしは、天から降って来た生きたパンである」とのみことばに「アーメン。その通りです」と答える必要があると思います。

「わたしは天から降って来た生きたパンである。」命の危険を冒しても、大胆に社会に対して証しをした時代があり、証しをした瞬間がありました。わたしたちも、イエスのみことばに生きている、自分を生かし、世を生かすイエスのみことばに生きていると、いつでも証しができるように日々を調えましょう。

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ちょっとひとやすみ
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ペーロン大会は準優勝。3レース競って、2位・2位・1位という成績。これは言うことない成績。本音を言うと、第2レースも勝っていたかもしれないレースだったので、悔しさは残る。その気持ちがあれば、次につながる。またやればいい。
▼高島に行く時にまた忘れ物をした。前回はUSBメモリーを忘れて痛い目に遭ったが、今回は携帯電話も忘れてきた。携帯電話を忘れると、連絡手段がいっさい取り上げられてしまう。ちなみに高島には固定電話を置いていない。
▼忘れたのだから、あれこれ考えてもしかたがない。それで説教作りに集中することにした。それでも、電話連絡がつかないと心配している人もいるだろうし、携帯にメールを入れて返事がないと首を長くして待っている人もいるだろうし、忘れたことを連絡できないもどかしさもあって、携帯を持っていないとそれはそれで気になるものである。
▼「あー、また忘れたのかな」と思ってくれれば助かるのだが、多くの人はそうでもないらしい。「大事な時にしか携帯を鳴らしたりしないのに、どうして返事をしてくれないのですか?」「忘れてたの」「えーっ、そんなことは思いもしませんでした。そう言えば2階で携帯の呼び出し音が鳴っていましたが、あれが忘れていた携帯だったのですね」そこまで分かっていて、どうして気付かないのだろう・・・
▼もはや携帯は何かの身分証明のようなもの、もしかしたら海外にいる時のパスポートのようなものかも知れない。無かったら歩いていても不安になるのだから、それはパスポートを紛失している人の気分に匹敵するだろう。こんな時代になったんだなぁ。
▼戻ってきて携帯を確認した。案の定、メール、電話などいろいろ入っていた。本当に申し訳なく思っている。連絡を付けたり、必要な対応を準備したりして、失った半日を取り戻そうと努力している。失った半日を取り戻すのに、1日はかかりそうである。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===