年間第25主日マタイ20:1-16


先週十字架山に登ってきました。私と、大明寺教会の人が1人、馬込教会の人が1人、合計3人で登りました。登ってみると、先に誰かがやってきて草切りをしてくれていました。ありがたいなぁと思いました。

今日のたとえ話も私たちがよく知っているたとえ話の一つだと思います。ただ、どれほど黙想してみたかということになると、あまり黙想したことはないかも知れません。それは次の2つの事情が絡んでいるのではないでしょうか。

1つは、今日のたとえ話が自分とどのように関わっているのか、思いつかないということです。このぶどう園の主人は、日が暮れる前の1時間しか働かなかった人たちにもちゃんと賃金を与えてくれた。とても寛大な主人だなぁ。それは分かるけれども、いったいそのことが、私とどう関わっているのだろうか。よく分からない。そう思っているかもしれません。

もう1つは、私たちの感覚で言う「まじめさ」が、たとえ話で伝えたいことを見えなくしているのかも知れません。「まじめだと、たとえ話の要点が分からない」というのはどういうことでしょうか。

こういうことです。今日こうしてミサに集まっているたいていの人は、根がまじめな人たちなので、「朝の6時から雇われて、夕方の6時まで働き続けた人」に、知らず知らずのうちに自分を当てはめているのだと思います。9時頃とか、昼頃までゆっくりしている人、3時までぶらぶらしている人、ましてや、夕方5時まで何もしないで一日中立っている人に、自分を重ねたりはしないのです。

そうするとどういうことが起きるか。きっと、朝から晩まで働き続けた人の立場でたとえ話を考えてしまうでしょう。「最後に来たこの連中は、1時間しか働きませんでした。まる1日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」(20:12)。この人たちの言葉に、つい「そうだそうだ。あんまりだ」と同情するのではないでしょうか。

それでも、たとえ話を語って聞かせたイエスが、ぶどう園の主人の思いを学ぶよう求めているのは明らかです。不平を言う労働者に、主人は「わたしの気前のよさをねたむのか」と言っていますが、これをもとの言葉にできるだけ近い日本語に直すと、「わたしが気前がよいので、あなたの目が悪いのか」となるそうです。不平を言っている労働者は、自分の思いにとらわれてしまって、主人の思いが見えなくなっているのです。

たとえ話の主人の態度ははっきりしています。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(20:14)と言っています。この主人の思いを知り、理解するためには、自分で当然だと思っている立場を捨てなければなりません。当然だと思っていることをいったん横に置くのは至難の業です。ここは強制的に、立場を捨てるのです。

強制的に自分がこだわっている立場を捨てるきっかけを提供しましょう。以前紹介した、あいりん地区で働いている神父さまの話を思い出しました。あいりん地区では労働者のために炊き出しが用意されています。炊き出しにあずかろうと、労働者の長い行列ができます。そんな中で、いちばん後ろに並んでいる人は、大きな鍋の底をかするような音がすると、不安な顔をするそうです。

自分までちゃんと炊き出しが回るかなあ、もしかしたら直前の人で、炊き出しが終わるんじゃないか。実はイエスは、そんな不安の中にいる人のそばにおられると教えられたと言っていました。早くから炊き出しにあずかれる、列の先頭に立っている人ではなくて、自分の分が残っているか心配になっている列の最後にいる人のそばにイエスはおられ、大丈夫、あなたの分もあるよと言ってくださる。それが神の心なんだと教えられたのだそうです。

同じことは、今日のたとえ話にも通じます。朝から働いた人は当然賃金をもらえる人たちです。最後に雇われた人は、賃金をもらえるか不安に思っている人たちです。この、賃金をもらえるか不安に思っている人のそばに神はおられ、心配いらないよ、あなたの賃金から先に払ってあげましょうと安心させてくださる。それが神の思いなのです。

この神の思いを学ばなければ、私たちに天の国は開かれません。賃金をもらえるか不安に思っている人に、「大丈夫。あなたにも賃金が払われますよ」と声をかけてあげられるほどその人の近くに行きましょう。すると、今日のぶどう園の主人の思いが理解できるようになります。

「わたしのような人間が生きていていいのだろうか。いっそいなくなった方がいいのではないか」。そんな絶望の中にある人のそばに行って手を貸してあげましょう。「大丈夫。あなたにもみんなと同じ1日が与えられますよ」。このように声をかけるとき、不安の中にいる人や、弱い立場にある人のそばに神はおられるということが理解できるのではないでしょうか。

自分が当然だと思っている立場を強制的に捨てなければ、神の思いを知り、理解することはできません。私たちは自分のまじめさや勤勉さ、正直さを絶対の物差しにしてしまって、知らず知らずのうちに神の思いが見えなくなっていたかも知れません。

自分の正しさを物差しにすれば、私は「先を行く者」であり、神によって後ろに回されます。一方で、何人の人に先を越されてもしかたない、いちばん最後でも神に信頼するしか道がないと思っておびえている「後にいる者」が、神のあわれみによって「先に喜びにあずかる」ことになります。

不安でいっぱいのまま後ろにいる者を先に取り立ててくださる神の思いは、おびえたまま後ろにいる人のそばに行ってみなければ、そうした人々の声に耳を傾けなければ、理解できないのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼敬老会の話。敬老会の招待者には福引きの賞品がもれなく当たることになっていた。その中に特別賞が混じっていて、今年も「主任神父さまが魚を釣ってきて、プレゼントしてくれます」という目録が入っていた。今年は目録の中に、「馬込の自治会長も釣ってきてくれます」というひとことも加わっていた。さらにボリュームアップということか。
▼そこで○曜日に、約束を果たすべく、午前中の会議を終えて戻ってきてから釣りに出かけた。その日の朝食時に、賄いさんに「会議戻って昼から特別賞の景品の魚を釣りに行くけど、手伝いに行かない?」と聞いてみたら、「行きます」ということだったので戻って準備して2人で出発した。
▼出かけてみると、型は小さいけれど、そこそこイトヨリも釣れ、シロサバフグ(長崎地方では「金ブク」とか、「カナト」と言う)も混じって、これなら持って行けるねという釣果になった。あと30分もしたら戻ろうかなぁ、と思っていた矢先、賄いさんの竿が突然海の中に突き刺さった。
▼「あっ!大きいのがかかりました」。見ればすぐ分かる状況だったが、漫才をしている暇はないので、竿が折れないように竿を立ててあげる手伝いだけして、リールは賄いさんに巻くように指示。すると35cmのマアジが上がってきて大喜びしたが、そのあと私がこう言った。「これ、どうする?これも賞品にしなくちゃいけないかな・・・」
▼話し合いの結果こうなった。「見なかったことにしよう。だれも釣らなかった。そして、司祭館に持って行こう」。そこまではよかったのだが、場所を移動してまた次の1投目に、竿が勢いよく海中に曲がって突き刺さった。今度は「3段引き」というマダイ独特の引きをしている。姿を見る前からマダイだと分かる。取り込んでまた2人で顔を見合わせ、「どうする?」
▼こんどは賄いさんがこう言った。「特別賞にはこう書いてありました。『主任神父さまが釣った魚をプレゼントします』と。これはどちらも私が釣ったのですから、差し障りはないはずです」。ごもっとも。今回に限って頭の回転が速く、特別賞の方には「35cmのマアジなし・38cmのマダイなしのお魚詰め合わせ」を持って行き、喜んでもらった。司祭館も、その日は宴会をした。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===