十字架称賛(ヨハネ3:13-17)

今年は9月14日が日曜日に当たりました。今日は十字架称賛の祝日です。たいてい日曜日に聖人の記念日などが重なると日曜日が優先されて聖人の記念日はお休みということになるのですが、9月14日十字架称賛の祝い日は、「記念日」ではなくさらに重要な日である「祝日」であるということと、「聖人に関する祝いでなく、主イエスに関する祝いである」という2重の理由で日曜日にもかかわらずそのまま祝日として祝われています。

まず、私たちが目にする「十字架」ということから話したいと思います。今でも覚えていますが、慶応大学の夏期講習の時期に、東京都内の教会巡りを日曜日ごとにしていました。初めの年は先輩にくっついて教会巡りをしていたのですが、2年目だったか、自分一人で行ったことのない教会でミサに参加しようと思い、田園調布の教会を訪ねていったのです。

だいたいの下調べをして田園調布駅で電車を降り、教会が見えたので入りました。すると生まれて初めて、イエスさまの像が付いていない十字架が正面に据え付けてあるのを見たのです。予定ではこれからすぐにミサが始まるはずなのに、誰もいませんでした。そこで司祭館らしき建物を探し当て、チャイムを押すと、背広を着た方が現れたのです。牧師さんでした。

「あの、ミサにあずかりに来たんですが」
「あなたたち、カトリックの人?ここはカトリック教会じゃないよ」
「すみません。間違いました」。

間違いにはすぐに気づいたのですが、初めてプロテスタント教会に入ってみて、違う雰囲気の中で戸惑うという経験をしました。何より、十字架にイエスさまが付いていないのにはビックリしました。もちろん、プロテスタント教会の信者さんは、十字架にイエスさまが付いていることのほうがビックリするだろうと思いますが。

よく尋ねられることですが、「なぜプロテスタント教会では十字架にイエス像はなくて、カトリック教会の十字架にはイエス像があるのですか」と聞かれます。これだという自信はありませんが、おそらく十字架にはりつけになったイエスに対する認識の違いではないかと思います。

カトリック教会とプロテスタント教会が共通に理解していることから出発しましょう。「イエスは確かに十字架に付けられた。そのイエスは、3日目に復活した」。この事実には両方の教会とも疑問の余地がありません。ここからが問題なのですが、プロテスタント教会は「イエスは復活し、もはや十字架にとどまってはいない」という理解でイエス像を置かないのではないでしょうか。

一方カトリック教会は、十字架上のイエスの向こうに復活を見ていて、イエス像を置いているということでしょうか。つまりプロテスタント教会は復活に力点を置いて十字架を眺めているのに対し、カトリック教会は十字架に付けられたことも、3日目に復活したことも両方共に大切にしていると言えるかも知れません。

いずれにしても、私たちは十字架の向こうにある復活の出来事を目の前の十字架から見て取る必要があると思います。そのことで最近、カトリック教会の聖堂では「第3の形」を見ることができます。十字架上に両手を高くかかげたり、または手を下げた状態で両手を開いたイエス像が置かれているケースです。大明寺教会はまさにその例に当てはまっています。十字架の向こうにある復活を読み取りなさいと言うだけではなくて、具体的に、「復活のキリスト」をイメージさせるキリスト像を十字架と組み合わせているデザインとなっています。見える形でも、復活のイエスを十字架上に読み取るように促しているわけです。

これは1つの大きな流れかもしれません。十字架上のキリスト像を見て、かつては次のような教育が施されていました。「ごらんなさい。イエスは手に釘を打たれ、わたしたちのために苦しんだのです。わたしたちはイエスの苦しみで救われたのですから、もうイエスを苦しめるような罪を犯してはいけません」。

ほらこんなに苦しんでいらっしゃる。かつてはそんな教育でしたが、現代のカトリック教会では十字架上のイエスを強調するのではなく、その向こうにある復活を強調しています。聖堂内の十字架を仰ぐ時、現代は別の視点が必要でしょう。「イエスは十字架の苦しみを経て復活の栄光に入られた。わたしたちはその栄光をたたえます」。はりつけにされたイエスという、目の前に見えるものだけをとらえるのではなく、その向こうにあるものを見る目が、現代求められているということです。

伊王島には、十字架山という場所があります。皆さんよくご存じの通りです。2年前だったと思いますが、ここに新しく十字架を設置しました。その際馬込教会の人で山登りをして、完成を祝ったのでした。あれから2年、私はその後1度も山に登っていないのです。ずっと気にはなっていたのですが、ちょうど十字架称賛の日が巡ってきましたので、山に登って少し祈ってみたいと思います。

これはついでの話ですが、もちろんまじめに祈りもしてきますが、せっかくの山登りなので、缶ビールの1本くらいは持って行こうかなぁと思っています。この十字架にはイエス像も何も付けられていません。それでも、私は立派な十字架だと思っています。私は久しぶりに十字架を据えた場所にたって、十字架の向こうにある何かを学んできたいと思っています。何も妨げがなければ、11時に登り始める予定です。

今日、十字架称賛の日に、私たちは自分の救いについてあらためて考えることにしましょう。私たちはイエスが十字架にかかってくださったことで救われた者です。イエスが奇跡を行い、神の国は近づいたと言っただけでは、救いは完成しなかったのです。十字架にかかってくださり、3日目に復活したことを、自分にできる精一杯の態度で感謝し、賛美することにしましょう。今日一日の中で、イエスが私たちの罪を十字架として担ってくださったことを思い、私たちも他人をゆるし、自分の十字架を背負う決意を新たにしたいと思います。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼今日本語の本でまじめに読み続けているのは「ローマ教皇歴代誌」という本。まじめに読んじゃいられないほど俗っぽい歴史だけれども(言い過ぎていたら申し訳ありません)、264代の歴史はいちおう目を通しておいたほうがいいだろうということで読み始めている。ただ今東西の教会が決定的な分裂を生じた1054年あたりを読んでいる。
▼ローマ側はレオ9世、コンスタンティノープル大司教はミカエル・ケルラリオス。どちらも頑固で、まったく妥協しようとしなかったとある。「そして、1054年7月16日、ついにローマ側はコンスタンティノープル大司教とその一派を破門にし、その代わりに相手からも破門を宣告された」(「ローマ教皇歴代誌」1999年初版、105頁)。
使徒座に就いた正統教皇のなかで聖人の列に加えられた教皇は78人、福者教皇8人、対立教皇の中からも2人が聖人に加えられている(同293頁)。そんな「パパ様」に忠実を誓い、イエスのために命をささげた殉教者が無数にいて、その中の188人が11月24日に列福されるのである。真剣にカトリック教会とは何なのか、カトリックの信仰とは何なのか、考えざるを得ない。
▼今週は十字架称賛の祝日に当たっている。十字架と言えば、伊王島のいちばん高い場所に金属製の大十字架が設置されている。2年前に、信徒で協力して山頂に運び上げ、設置後にみんなで祈りを唱えて喜び合った。昔からその山は「十字架山」と呼ばれているらしく、以前から記念の十字架を設置したいという声を聞いていた。
▼せっかくの祝日だから、この日に合わせて山登りをしてみようと思っている。設置した時はみんなで手分けして草刈りをし、参道を作り、きれいにしたのだったが、この2年でまた荒れてしまっているかも知れない。チャンスがあれば、信徒にも声をかけて、一緒に登ってみよう。十字架をたたえるためにカルワリオの山を登るつもりで登れば、何か見えなかったものが見えるかも知れない。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===