聖木曜日(ヨハネ13:1-15)

今日、聖木曜日に私たちは祭壇を囲み、主が弟子たちと一緒に「感謝の祭儀=ミサ聖祭」を制定し、弟子たちには司祭職を授けたことを記念しています。いろんな面を説教の中に取り上げることができるでしょうが、2005年の聖木曜日、私たちのこの教会の中で考えてみたいことを一つ取り上げてみたいと思います。

一つ、取り上げたいこと、それはこの説教のあとに行われる「洗足式」に現れている「兄弟愛」についてです。朗読箇所の中でイエスが食事を中断してまでも弟子たちの足を洗って互いに愛し合うようにと諭してくださったことを、今日私たちもそっくり再現しようとしています。

エスは「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と仰いました。この、足を洗い合うことには、どんな意味が込められているのでしょうか。ただこの一点に絞って、今年の聖木曜日のメッセージを皆さんに語りかけたいと思います。

「足を洗う」。私たちのふだんの暮らしではあまり使わない言葉かも知れません。変に誤解される場合もあるかも知れません。私たちが結びつけるのは、悪の道からきっぱり縁を切るといった意味合いがあると思います。悪を離れ、まともな生き方に立ち帰る様子を思い浮かべることでしょう。

実際に、イエスの暮らしていた場所ではもう少し違った意味合いがあったかも知れませんが、私たちが知っている意味をイエスのなさったわざに当てはめても、私は十分意味が通じると思っています。お互いに、悪の道に見切りを付け、きれいさっぱり縁を切って、まともな暮らしに立ち帰る。互いにそのような暮らしに向けていきなさいと仰ったと考えても、十分意味は通じると思います。

さらに、イエスがおられた地方での「清め」という意味や、主人の足を洗うことが僕の仕事であったことから自分を低くして仕えるという意味も込めて、あらためて「お互い、足を洗い合いましょう」とイエスが招いていると考えて良いのではないでしょうか。

さらに、イエスが弟子たちの足を洗うことで示したかったことはないでしょうか。これまで話してきたことは、「互いに足を洗い合いなさい」「いろんなことがあっても、互いにゆるし合いなさい」という勧めの意味合いがありました。私はこれに加えて、もう一つのことを付け加えて良いのではないかと思っています。それは、「互いに足を洗い合うことができるのですよ」「いろんなことがあっても、互いにゆるし合うことはできるのですよ」という勧めからもう一歩踏み込んだ意味も、イエスは弟子たちに示されたのではないでしょうか。

こういうことです。人間は時折馬が合わない人が出たりします。この人とこの人がはち合わせすると、必ずと言っていいほど噛みつき合うことになる。誰かが止めないと大変なことになる。それほどいがみ合いをしている人間同士とかグループ同士、そういったものが世の中にはあるのではないでしょうか。

エスは人間同士の争いを見つめて、こう仰るのです。「互いに足を洗い合わなければならない」「互いにゆるし合わなければならない」と。さらにイエスは大胆に踏み込んできてくださるのではないでしょうか。つまり、「互いに足を洗い合うことは可能ですよ」「互いにゆるし合うことは可能ですよ」ということなのです。

本当に、互いに足を洗い合い、ゆるし合うことは可能でしょうか。ある人とある人は、カトリック信者でありながらいがみ合っています。あるグループとあるグループもそうです。人間として、その人たちは絶対にどちらも折れる様子はありません。それでも、互いに足を洗い合い、ゆるし合うことは可能なのでしょうか。

できるかできないか。それは、イエスの模範からどれだけのことを学び取るかにかかっているのだと思います。イエスはご自身模範を残して、互いにゆるし合うことを勧め、それはできるとみずから証明なさるのです。

なぜ足を洗う動作でどんなことがあってもゆるし合うことができると言えるのか。それは、前後の話の流れから説明が付くと思います。イエスは最後の晩餐を十二人の弟子が居る中で始めました。足を洗う時、イスカリオテのユダはまだその場所にいたのです。本当なら、ゆるせない人間の足を前にして、この裏切り者!と叫ぶこともできたのに、イエスは黙って十二人全員の足を洗ったのです。これは、互いに足を洗い合い、互いにゆるし合うことは可能なのですという何よりの証明なのではないでしょうか。

さらに、イエスは先生として弟子の足を洗っただけではありません。朗読の中で次のような言葉が残されています。「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである」と仰っています(13・13)。人間としては先生でしょうが、同時に神の子、救い主としても被造物に過ぎない人間の足に身をかがめ、足を洗い合うことは可能ですよ、ゆるし合うことは可能ですよと仰っているのではないでしょうか。

神が人間の足に跪いてゆるし合うことを教えたのです。どうして人間同士が互いに跪いてゆるし合うことができないというのでしょうか。たとえ信者同士であってもあの人は絶対に許さないと言えるのでしょうか。神が人間の足を洗ってゆるし合うことを教えているのに、人間同士、ちっぽけなものどうしてあの人を許せないと言うのは愚かなことではないのでしょうか。

今日、司祭は十二名の信徒の足を洗います。この姿から、私たちが互いに洗い流せないものはない、ゆるし合うことのできないものなどないはずだということを、あらためて確かめたいと思います。イエスができると仰っているのに、私たちがそんなことできませんと言うのはまったく筋が通らないことを、目で見る動作を通して学ぶことにいたしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼遅い風呂に入ろうと服を脱いだ瞬間、聖木曜日の説教が天から降ってきました。風呂に浸かっている間じっくり温めまして、その勢いで今年の聖木曜日の説教は書き上げてしまいました。出来映えはどんなものでしょうか。
▼一度ひらめいたものをいったん手放してみることもあります。いったん手放してみると、どうしてもそうとしか考えられない時はもう一度それを拾って使うでしょうし、思い出そうとしても思い出せない場合は、ああ、あのアイディアはその程度のものだったのだとあきらめます。
▼また場合によっては、これはそのまま使おう、忘れないうちに形にしてしまおうと決断する時もあります。何が判断の基準かというのは難しいのですが、勘というか、経験というか、やはりこれもまた「いったん放棄してという手順は踏むべきではない」と、何かが自分に語りかける所があったりするのです。
▼まあ、気分次第という面もあるのかも知れませんが、いろんなところで自分の直観みたいなものは大事にしていたりします。その根拠というわけではありませんが、今日も「あの人、取りに来てくれないなあ」などとつぶやいていたら、チャイムを押してその人が玄関に立っていました。自分の勘を信じたくもなるわけです。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===