年間第29主日(ルカ18:1-8)

「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(18・8)イエスは信仰が一時の熱狂で終わってしまい、人の子の再臨の時に絶えてしまわないか心配しておられます。地上に、わたしたちの教区、小教区に、イエスが期待するような信仰が見られるでしょうか。

広島に行ってきました。「白浜司教様に面会して翌朝は司教様とミサをささげてくる。ついでに野球観戦もしてくる」と先週繰上げミサの中学生に話すと「どっちがついでだか・・・」と言われましたが、真っ先に司教館で白浜司教様に面会してから野球観戦に行き、翌朝も司教様とミサをささげたのだから、わたしの主張に間違いはありません。

マツダスタジアムでは広島教区のH神父様のご厚意で、6人掛けのテーブル席を押さえてもらっていました。招待されていたのはわたしと仙台教区のK神父様、横浜教区に派遣されている仙台教区のW神父様、それと司教館で働くMさんとIさんの6人で、主審のプレイボールの号令とともにテーブル席も生ビールのプレイボールがかかり、ゲームセットまで飲み続けていました。わたしと広島教区のお三方が熱心なカープファンです。ただ9回の田中の一発の時、わたしは隣のW神父様とおしゃべりしていて、せっかく球場に来ていたのに見逃してしまいました。

翌朝は司教館のチャペルで司教様と朝7時から一緒にミサをおささげしました。司教館は幟町教会の敷地にあるので、同じ時間に聖堂でもミサがささげられていました。ほかの神父様はそちらに出ていたのかもしれません。わたしがチャペルに行きますと、わたしのほか誰もいませんでした。純粋に二人きりで、ミサをささげたのです。

わたしは司教様とミサをささげながら、この司教様が自分とは違うものを見てミサをささげていると感じました。わたしの目には、おそらく八畳くらいの、誰もいない空っぽの小さなチャペルしか見えていませんでしたが、司教様の目にはきっと広島教区民すべてが見えていたのだと思います。一緒にささげているミサでありながら、わたしと司教様とでは取り組む姿勢に天と地の開きがある。そう認めざるを得ませんでした。本当に貴重な体験をさせてもらいました。白浜司教様が福者になるようなことがあれば、体験したことを喜んで証言したいと思います。

福音に戻りましょう。イエスは「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」(18・1)と考えておられます。たとえ話の中で、やもめが裁判官にひっきりなしにやって来て、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と願っています。

登場人物の置かれている立場をおさらいすると、やもめは夫を亡くして社会的に非常に弱い立場に置かれている女性です。裁判官は、一般的な揉め事を仲裁するために立てられた「にわか裁判官」でしょう。揉め事は例えば金持ちとの金銭トラブルで、金持ちはわいろを裁判官に渡して、もみ消してほしいと頼んでいるかもしれません。日常ありがちな、弱い者が泣く目に遭うという構図なのでしょう。

やもめは正しい裁きを求めてひっきりなしにやってきます。「うるさくてかなわない」とすら言っています。「さんざんな目に遭わせる」という場面は、元の言葉の意味を汲むと、「目の下をこぶしで狙ってアザを付ける」そういう意味合いだそうです。おちおち寝られず、目の下にクマができている様子を想像すると滑稽でもあります。

弟子たちが、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と言われているのは、これくらいの圧力、これほどの圧倒的な熱量を指しているわけです。わたしたちは日頃、188福者の列聖を願い、また高山右近の列聖を願っています。わたしたちの祈りは、「うるさくてかなわない」「さんざんな目に遭わせる」と思わせるほどの圧倒的な熱量があるだろうかと考えてしまいます。桑の木が山から海に根を下ろすというのも、通常考えられないようなことさえ引き起こす熱意にほかなりません。この熱意が、わたしたちには欠けているかもしれません。

振り返って、白浜司教様の一日を始めるミサでの祈りを考えてみました。もしわたしがあの日ご一緒しなかったら、たった一人でミサをささげていたのかもしれません。けれどもお話ししたように、わたしがそばにいようがいまいが、司教様のささげているミサからは広島教区民が二重三重に取り囲んでいるような熱意を感じたのです。司教様のミサの奉献文の祈りは、広島の全教区民をイエス・キリストを通して御父におささげしていることがひしひしと伝わる祈りだったのです。

わたしはどうだろうかと思いました。一人でミサをささげることはほとんどありませんし、白浜司教様のような環境に置かれたら、心が折れて一人ではミサをしなくなるかもしれません。そんな気を落としそうになる環境にありながら、黙々と、高い志でミサをささげている姿を拝見して、大いに勇気づけられ、慰められました。

白浜司教様が日々こなさないといけないことは分刻みに手帳に書き込まれていました。しかしどんなに忙しくても、気を落とさずに絶えず祈ることができるか。たった一人で、教区民のため、小教区のため、ミサをささげ続けることができるか。これは別の問題だと思いました。

「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」広島教区は幸せだと思います。少なくとも一人、白浜司教様が気を落とさずに絶えず祈り続け、人の子が来るときに顔を上げることができるからです。

わたしたち田平小教区には、こんな信徒が見いだされるでしょうか。誰の目に留まらなくとも、たとえどれだけの人が気落ちして祈ることをやめてしまっても、絶えず祈り続けてくれる人がいるでしょうか。イエス・キリストの再臨の時、恐れずに顔を上げる人がわたしたちの小教区に与えられますように。ミサの中で願い求めましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼父はずっと学ぶ姿勢をわたしたち子どもに示してくれた。この話を結婚講座の人々に話して聞かせるのだが、最近この話の内容に致命的な欠陥があることに気づいた。父からの話を基に話してはいるが、そもそも県北とはどこで、農業高校とはどの高校なのか、確かめたことがなかった。この致命的な欠陥に、先の結婚講座の中で答えが出たのである。よくよく考えると県北とは中田神父が今生活している平戸市田平町のことで、授業を受け、試験会場となったのは田平教会から200mも離れていない「長崎県肉用牛改良センター」だったのである。
▼さらに、農業高校というのはこの田平教会から500mしか離れていない北松農業高校のことで、ラーメン屋は田平教会のTさんの証言で、農業高校のすぐそばで弟が経営していたラーメン屋だろうと分かった。下宿した場所も推定できた。現在のサムソンホテルが建っている場所はかつて「田平荘」という町営の宿で、資格を取得しに多くの人が滞在していたそうだ。
▼今回の結婚講座に来たカップルが言った。「先生、先生はきっとお父さまが下宿して苦労されたその土地に、巡り巡って赴任してきたのではないでしょうか?」わたしは、雷に打たれたような衝撃を受けた。わたしは今、父が自慢げに話し、資格を取得するために苦労した土地に、30年後に住み着いているのだ。これまでは、父の話を結婚講座に来たカップルに単なる参考として話していたに過ぎなかったが、父の体験は、目の前の景色の中で繰り広げられていたのである。
▼そう考えるとき、話す内容は単に書物からの借り物とか、だれかの話の二番煎じとか、そういうものではなく、生きている話、まるで絵本から飛び出してきたような話となった。県北のどこかとか、県北のとある農業高校といったあいまいな話ではなく、生き生きと語ることのできる材料を、父は息子であるわたしに与えてくれていたのだ。
▼もちろん父には、そこまでの深い計画はなかっただろう。わたしに一生の宝物となる話を与えてくれたのは神なのだと思う。一介の人間が、このような深遠な計画を立てることなどできるはずがない。しかし神は永遠であり、神の計画は人間の知恵の及ばないものなのだ。本当に素晴らしい宝をいただいた。
▼最後にこの話を完成させるためには、わたしの父から声をかけられて、無理やり家庭教師をさせられた当時の農業高校の生徒を捜すことである。どこかにいて、この話を読んだなら、ぜひ声を上げてほしい。直接会って、話を聞きたい。

† 神に感謝 †