年間第17主日(マタイ13:44-52)

「高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(13・46)わたしが今週取り上げたい箇所です。わたしたちも高価な真珠を一つ見つけることにしましょう。

高価な真珠が一つあると、その人は持ち物をすっかり売り払うと言います。わたしはこれを、「何物にも代えられない価値観」のことではないかと考えました。価値観とは、ものの見方や考え方のことですが、わたしたちに何物にも代えられないものの見方が身につけば、それは他のどんなものを手放しても惜しくないと思えるようになります。

例を挙げてみましょう。まずは人に対する見方です。「どんな人にも、必ず良いところがある。」これは人に対する価値ある見方だと思います。イエスは、どんな人にも天の国に迎えられる価値があると呼びかけました。当時の宗教指導者が切り捨てた人々にも天の国に招かれることができると語りました。イエスのように、わたしたちもすべての人に心を開き、その人のよいところを見つけようとする見方は、なにものにも代えられない価値あるものではないでしょうか。

次に、「どんなことにでも感謝する。」これも、わたしたちの生き方をすっかり変えるものの見方だと思います。イエスはご自分の教えが指導者たちに受け入れられない中でも、父なる神をほめたたえました(マタイ11・25。今週の「聖書と典礼」のアレルヤ唱参照)。周囲の無理解の中でも、神に感謝することができたのです。

ある人にとっては今日一日が、これ以上ない辛い日と感じるかもしれません。そんな一日であっても、今日一日を神に感謝する。変わらずにこの態度を貫くことは、何にも代えがたい生き方ではないでしょうか。

最後に、「わたしは神に愛されている。」これも、わたしたちがほかのどんなものの見方を横に置いてもよい考え方です。イエスはご自分を死に追いやる人々に対しても、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23・34)と祈りました。イエスは誰も裁かず、すべての人を愛してくださったのです。イエスがわたしを愛してくださっている。だからわたしも、人を愛することができます。

3つ、例を挙げてみました。あなたにとってのかけがえのない宝が、人生の中に必ずあるはずです。神さまは必ずその宝に出会わせてくれると思います。その時を逃さず、ほかのものに目をやらず、神が示してくれた宝を手に入れたいものです。

今日、子供たちは11小教区が集まっての球技大会に参加します。試合ですから、勝ったり負けたりするでしょう。けれども、練習したことを試合の中で発揮できたら、勝ち負けの向こうにあるものの見方に触れるのではないかと思っています。それは、しなければならないことをした上で、すべてを神さまに委ねるという態度です。毎回、この姿勢で球技大会に臨めば、球技の結果とは別に、子供たちは高価な真珠を一つ見つけることになるのではないかと思っています。

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ちょっとひとやすみ
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▼養護施設に上五島地区司祭たちが訪問して交流会を持った。年に一度この機会を持つのだが、今年は二つの触れ合いのうちの一つしか実行できなかった。例年だと、野球の試合を組んで、そのあとにバーベキュー形式の食事会をしている。今年は野球ができなかった。
▼理由は、養護施設の子供たちのメンバー構成にある。今年の顔ぶれを見ると、高校生と思われる子どもたちが明らかに多い。野球チームを編成するとき、不公平にならないように小学生何人、中学生何人、高校生何人という割合があるそうで、今年は小学生が不足してチームを申請できなかったそうである。
▼わたしたちとの野球の試合というのは、養護施設対抗の野球大会に向けての練習試合を兼ねている。今年はチームを申請していないので、練習がてらの野球の試合も組まなかった。もし試合をしていたら、ほとんど高校生のチームだから、司祭チームはこてんぱんにやられていたに違いない。
▼残るは、バーベキュー形式の食事会での交流。こちらは天気も良くて、問題なく開催された。子供たちは大喜び、わたしたちもひと時賑やかな食事ができていやされた。子供たちがすくすくと成長し、社会に巣立って、社会の中でかけがえのない価値観を掘り当ててほしい。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===