年間第27主日(ルカ17:5-10)

土曜日朝から、頭が痛くて起きているのが辛かったです。思い当たることは、金曜日に婦人会ミニバレー大会の練習に参加した後、ボイラーが作動せず、しかたなく水でシャワーを浴びたことです。これが効けたのかもしれません。でなければ、たまに悩まされている気圧の変化で起こる頭痛かもしれません。どうにも頭を働かせることができなかったので、今回の説教はかつて文庫本で出した2004年のものを参考にしました。

福音は、信仰を増してくださいと、弟子たちが願うのに答えて、イエスからし種一粒ほどの信仰があれば、あなたにとって十分だ。問題はそれが揺るぎないものかどうかなんだよと教えてくださる場面でした。信仰はいかに小さなものであっても人をあっと言わせる大きな働きができるのです。

ここでもう一つ考えてみたいと思います。それは、信仰を増してくださいという弟子たちの願いは、少し的はずれだったようで、やんわりと断られたということです。つまり、人が神に願うことはいつも適切かというとそうでもなくて、的はずれな願いは取り上げてもらえないということもあるのです。

わたしたちの願いごとのうち、ある願いは、的はずれな願いに終わっています。信仰は願う人すべてに種として蒔かれます。からし種ほどの信仰で十分働く力を持っていると諭されたところを見ると、信仰を増してくださいという願いはおそらく的はずれだったのでしよう。むしろ「不信仰から立ち直らせてください」と願うべきだったのだと思います。

エスは、信仰を多いか少ないかで考えている使徒たちに注意を促します。イエスは違う答えを示します。少ないと思われる「からし種」ほどの信仰で十分です。なぜでしょうか。それは、信仰は突き詰めると「神様を信じているかどうか」「信頼しているかどうか」だからです。

神を信頼している人はすでに十分な信仰を持っています。信仰とはその人が自力で何でもできるということではありません。その人には、神が信仰に答えて働いてくださいます。信仰が神を信じることと言い切ることができるのであれば、少なめに神を信じていますとか、多めに神を信じていますというのはどこか的はずれだと思います。

では、信仰について何を願うことができるのでしょうか。わたしは、すでに信仰を持っています。神を信じているからです。信じていないという人は別として、もうすでに信じています。ですから、わたしどもの信仰を磨いてください。ふらふらしないようにしてください。こんな願いが適当かもしれません。

次に、善良で忠実な僕を紹介しながら、「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(17・10)という呼びかけをしました。これはじつは信仰を増してくださいという前半部分で考えた答えと深く関わっていると思います。

信仰が揺るぎないものとなるように、信仰に磨きをかけていただくように願うなら、その願いは取り上げてもらえると思います。結果、わたしたちがいただくものは、さらに磨かれた、ふらふらしない確信のようなものだと思います。そして、今日の朗読の結びでイエスが勧めている態度も、神が評価してくださるという確信がなければそれは言えない言葉だと思うのです。

「しなければならないことをしただけです」。わたしたちは多くの場合、自分がしたことを並べたがります。覚えてもらうため、自分のことを良く思ってもらうためです。これもしてきましたあれも続けました・・・それは、裏を返せば、自信がないからそう言うのかもしれません。「しなければならないことをしただけです」とは、よほどの自信がなければ言えないせりふだと思うのです。

せっかく願うのであれば、ふらふらしない信仰を願いましょう。イエスの前で「わたしは生きている間、しなければならないことをしただけです」と、信頼のうちに自分をゆだねることができるように生活を整えていきましょう。それを可能にするのは、ふらふらしない信仰だと思います。そしてこの揺るぎない信仰こそは、わたしたちが願い続けてよいものではないでしょうか。

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ちょっとひとやすみ
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▼ここのところ、自分で自分にため息をつくことが多くなってきた。以前だったら自分に腹が立っていた所だが、血圧が上がるのではないだろうかと心配して、腹を立てることは少なくなってきた。しかしため息をつく場面には事欠かない。
▼婦人会のミニバレーの練習を終えて司祭館に戻って来る。着替えて風呂に入ろうとしていると、紙ゴミが目に留まったのでそれを手に取り、ゴミ箱に投げ込む。だが実際に投げ込んだのはこれから洗濯する着替えだった。
▼病人訪問。1人目の自宅に到着し、家庭祭壇で対面。その瞬間に「しまった。ご聖体を持ってきていない」と気づき、「おばあちゃん、このままちょっと待っててね」と言って聖堂にもどり、聖櫃からご聖体を取り出す。考えられないと思いつつも、事実忘れたのである。
▼先週も味噌汁を鍋にかけて黒焦げにしてしまった。いろいろ考えると、自分自身の行動でありながら、自分自身で責任を持てなくなってきている。それは否定しようがない。しまいには自分で握っている車のハンドルも、責任を取れなくなる時期が来るのかもしれない。
▼車の運転は、そういう危険を感じたらすぐに免許を返納しようと思う。わたしは車に未練は無い。さまざまな車に乗る機会が与えられたが、どの車も何かしらトラブルに見舞われた。事故であったり違反であったり、あまりいい思い出がない。だから未練は無い。
▼自分にため息をつく生活は楽しくない。もっとここ最近の変化を楽しみながら、自分を受け入れながら暮らしていこう。これ以上若くなることはないのだし、これ以上の記憶力を望むこともできないのだから。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===