年間第21主日(ルカ13:22-30)

わたしたちは、いつも時間と場所の中に置かれて暮らしています。このわたしたちから切っても切り離せない時間と場所の問題ですが、もう少し考えると、「過ぎた時間」「今」「将来の時間」の三つに分けられます。その中で、いちばん考えなければならいのは、「今の時間」です。これは誰が考えてもそうなるのではないかと思います。

「過ぎた時間」「過ぎたこと」は、変えることができません。また、「将来起こること」を前もって用意することもできません。せいぜいできることと言ったら、今の時間をより良く生きるということです。この基本中の基本について、今日の福音朗読は考えさせてくれると思います。

ある人がイエスに尋ねました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。この人が尋ねたのは「将来のこと」「将来起こること」です。イエスは神の子として、この質問に直接答えることもできたでしょうが、未来のことはわたしたちにはどうにもできないことです。

わたしたち人間にとっていちばん大切なことは「今の時間」なのですから、イエスは「救われる者」について、「今の時間の中で考えるべきこと」を答えとして示してくださいました。「狭い戸口から入るように努めなさい。」つまり、今の時間にできること、今考えておくべきことこそ、あなたにとって必要ですと言いたいのです。

「過ぎた時間」あるいは「将来のこと」よりも「今の時間」が大切なのはすでに考えましたが、「今の時間にできること」はどんなことでしょうか。大きく二つに分かれると思います。一つは、「目の前にあることを今おこなってみる」ということ、もう一つは、「今は取りかからず、後回しにする」ということです。

わたしたちの経験で十分に分かっていることですが、後回しにしたことは、結局どうなるのでしょうか。当然のことですが、後回しにしたことは消えてなくなるはずもなく、どのみち後でしなければなりません。そしてしばしば、「あの時しておけばよかった」と言うのです。

後回しにした経験をお持ちの方は、イエスの言葉がよく分かるのではないでしょうか。「狭い戸口から入るように努めなさい」。ある時わたしたちは、すべき事を後回しにしました。後回しにしたことは消えてなくなるどころか、更に問題が大きくなってのしかかってきます。時には取り返しがつかないことさえあります。

人間の救いは「将来起こること」に違いありませんが、そのために何かができるとすれば、それは今しかないのです。だから、「どちらかを選ばなければならないのであれば、狭いほうを選びなさい」と強く勧めているわけです。

主人に締め出しを食った人が食い下がります。「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、わたしたちの広場でお教えを受けたのです。」(13・26)ですがこの人は食べたり飲んだりしている時に話してくれた「勧め」を気にも留めていなかったのかも知れません。教えを受けた時に、「そんな面倒な教えは今のわたしには関係ない。後で考えよう」と言って後回しにしたのでしょう。「今できること」と、「今できるけれども後回しにしよう」という気持ちの中で、狭いほうを選ばなかったのです。

わたしたちの生活はどうでしょうか。今積み上げないといけない努力を、後回しにしてはいないでしょうか。今積み上げることができるのに、そこから目を背けてはいないでしょうか。

わたしは皆さんの勉強のことや仕事のことに口を挟むつもりはありません。ですが、任せられた信徒の牧者として、「こんな態度は『今できること』を『後回し』にしていることですよ、その責任は、ほかでもないあなたが引き受けるのですよ」と言い続けなければなりません。また、中田神父みずからが生活による証しを立てなければなりません。

たとえば、わたしたちは一日に三回食事をします。どのみち、食べるのですが、食前の祈りをするかしないかは、できることを今するのか、後回しにするのかの境目なのではないでしょうか。どうせ食べるのです。ですがしばしば、わたしたちは狭い戸口を避けようとするのです。

一日の終わり、目を閉じない人は誰もいません。どのみち目を閉じて、眠りに就くのですが、わたしは狭い戸口から入るように努めているでしょうか。疲れてヘトヘト、今日は何もできない。そういう日もたまにはあるでしょう。イエスはそんな疲れた人、重荷を負う人を責める方ではありません。イエスの言葉をよくよく考えれば、「狭い戸口から入るように努めなさい」「入るように努めなさい」です。「狭い戸口を通れない人はその時点で救われません」とは仰っていないと思います。

日曜日のミサ。どんなに忙しい人でも、二週に一回とか、月に一回は休みを日曜日に振り替えることはできると思います。できたのにしませんでした。このようなことが多々あるのではないでしょうか。

今何をするか考える時、後回しにしようと考えるか狭い戸口から入るように努めるか。いつもわたしたちはどちらかを選んで生きています。何かを後回しにした時、それがそのまま過ぎた時間の出来事となります。今しなかったことで、取り返しがつかなくなることもあるのです。

子供からお年寄りまで、今できることがあると思います。ありがとうという言葉を口に出して言うこと、お世話する人が愛情あるひと声をかけることなど、今できることは何か見つかると思います。

狭い戸口から入るように常々心がけている人は、今できることを一つずつ引き受けて、それを積み重ねていく人です。神はその人をご自分の懐に入れてくださいます。狭い戸口から入る人は、今の生活の中で、神に守られて生きる幸せを感じることができるのではないでしょうか。

教会を通して示される神のすすめを、わたしたちの選ぶべき戸口として受け取りましょう。ひとりで引き受けるのではありません。そばにいてくださるキリストと引き受けていくのです。そのことをしっかり感じ取るためにも、ミサの中で照らしをいただくことにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼何か別の話題を取り上げようと考えていたのかもしれないが、どうも「今、この時点で」思い出せないので頭を切り換える。2004年の説教案は、かつて「取って食べなさい−−主日の福音説教C年」として自費出版しているが、今週たまたま説教案を練る時間が工面できず、当時のものを拝借することにした。
▼物理的に不可能だったわけではない。しなければならないことを後回しにして、したいことをした当然の報いである。ついでになるが、自分で書いた過去の説教案を流用するのでさえ気が引けるのであるから、他人の説教案を無断で借りて説教をしている人がいるとすれば、相当良心の呵責があるに違いない。
▼過去のものを借りるにしても、そのままは使えないからいったん全部に目を通してみる。すると、すぐに「タイプミス」に気がついた。わりと早い段階で「いちばん考えなければならないのは・・・」という部分があるが、「いちばん考えなければ『ら』ならないのは・・・」(二重括弧『』は強調のため追加)となっていた。
▼当時は気付かずに放置されていたのだが、時間を置いて読み返したことで見つけることができた。ちなみに自費出版した文庫本はどうなっているかというと、やはりここでもタイプミスのまま印刷されている。協力者を仰いで校正をしたつもりだが、見抜けなかったらしい。
▼文庫本にした2004年(C年)の原稿量は、本文だけでおよそ18万文字、それを僅かな人員で校正したのだから無理もないが、今読み返しても悔しい。後にこうして原稿を拝借しようと読み返した1回分でさえミスタイプが見つかるのだから、全部読み返せばまだ穴は見つかるだろう。
▼より良いものを残そうという努力は、やはりどんなに歳を重ねても怠ってはいけない。今回のことを通して痛感した。ということは、たまには自費出版した年度の説教案を拝借して、流用することも無駄ではないかも知れない。いや、単なる言い訳に過ぎないか。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===