年間第18主日(ルカ12:13-21)

6月の下旬から、浜串の集落をてくてく歩いています。だいたい歩数計で1万歩です。初めは平地を歩いていたのですが、7月の下旬からは坂道を歩こうと、教会前のバス停から後浜串バス停までを利用しています。まだ始めたばかりなので、見た目の体型はまったく変わりません。

6月24日から8月3日まで約40日間、1万歩に達しなかったのは3日間だけでした。坂道は平地を歩くときよりきついです。このきつさを乗り越えたら、11月くらいから走り出して、来年1月のマラソン大会には怖いものなしの練習を積んで出場する予定になっています。全部、頭の中だけの計算ですけど。

平地を歩くには問題ないのですが、坂道で1万歩稼ぐのは一苦労です。歩き始める時に「後浜串までの坂を5往復すれば簡単に1万歩だ」と頭では考えますが、2往復したころには最初の決心は吹っ飛んでいます。「今回はやめとこう。平地を歩いて辻褄を合わせよう」となるのです。せいぜい3往復が関の山で、まだまだ心の鍛錬ができていないです。

今週、愚かな金持ちのたとえ話が語られています。たとえ話に出てくる人物は、この世を渡る人としてはとても賢い人物でした。金持ちになったわけですし、畑の作物は豊作に恵まれています。やりくりの上手な人でなければ、これほどの成功は望めないでしょう。

この人はとても良い考えを思い付いたつもりでした。「こうしよう」と言った時、「いいことを思い付いた」と考えたはずです。ところが、彼には残酷な運命が待っているのです。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(12・20)

彼の取った行動は、なぜ神に「愚かな者よ」と切り捨てられたのでしょうか。一言で表すと、「神を喜ばせなかったから」です。彼の「いいことを思い付いた」というのは、「自分を喜ばせる思い付き」であって、「神を喜ばせる」ことには少しもつながらなかったのです。

「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。」今夜命が取り上げられるというのは極端だとしても、わたしたちもまた、神に命を与えられ、神にいのちを取り上げられる者です。その最終告知の時までに、「自分を喜ばせること」ばかり思い付いたのか、「神を喜ばせること」を思い付いたのかは大きな運命の分かれ目になるのです。いつか命は取り上げられるのに、その神の前で「自分を喜ばせる思い付き」しか報告できないとしたら、どんなに愚かな人生でしょうか。

わたしは、「神を喜ばせる思い付き」が浮かんだことがあるでしょうか。中田神父は坂道で足腰を鍛えようと決めてから、日曜日の説教を考えてみることにしました。「自分を喜ばせること」を考えながら3往復目に入ろうとしても、ぜんぜんうまくいかないからです。むしろ、3往復目以降日曜日の福音朗読をどう話すかを考えれば、目の前のきつい坂のことを少し忘れることができます。しかも、そのことで「神を喜ばせる」ことができます。一挙両得です。

ただ単に坂道の訓練をしても、たとえ5往復できたとしても、神は喜んでくれないかもしれません。けれども、訓練の途中で日曜日の説教のことを考えているなら、神を喜ばせるのではないでしょうか。引退したある先輩の神父さまが、「わたしは説教を考えるのに行き詰まったら、走りに行って考える」と言っておられました。わたしは「できるはずがない」と思っていましたが、今はその考えが少し分かる気がします。

さて、皆さんは今週の「愚かな金持ちのたとえ」をどう受け止めるでしょうか。両親、また祖父母が、子どもたちを眺める時、「子どもたちを喜ばせる」ことを考えるでしょうか。それとも、「子どもたちを神が喜ぶ道に向かわせる」ようにするでしょうか。単に「子どもたちを喜ばせる」だけでは、自分を喜ばせるのと同じです。それは、神の前に賢い思い付きではないわけです。

むしろ、子どもに「神さまを喜ばせる何か」を思い付かせ、そのために協力するようにすれば、神の前に豊かになります。イエスの答えはこうです。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(12・21)

福音書をひもとくと、あちこちに「神を喜ばせる人」が登場します。しかも、その人たちは難しいことを言っているのではなく、ふだんの生活の中に神を喜ばせる方法を見つけています。

たとえば、「シリア・フェニキアの女」は、娘から悪霊を追い出してもらいたいと願う時に、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(マルコ7・28)と答えました。

また、百人隊長が僕をいやしてもらいたいと願う時に「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」とふだんのありのままの姿を述べました。

どちらの場合も、イエスはその立派な答えを聞いて、願いを聞き届けてくださいました。難しい言葉を並べたのでも、どこからか借りてきた言葉を並べたのでもありません。ありのままの生活から、彼らは神を喜ばせたのです。

わたしたちも、自分を喜ばせることばかりにとらわれないで、神を喜ばせる毎日でありたいと思います。命をいただいたかたに報告できるのは、どれだけ神を喜ばせるために工夫したか、それだけです。それは、どこか遠くにあるチャンスではなく、生活のただ中にあるのです。自分を喜ばせる見方からは、神さまを喜ばせることは生まれません。

神を喜ばせるような捉え方に目を留め、神の前に豊かに生きることができるよう、ミサの中で恵みを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼今年の夏休みは、まだ一度も子どもたちが司祭館のチャイムを鳴らさない。「子どもたちの鳴らすチャイム」とは、「海水浴の見張りをしてください」という合図である。面倒くさいが、チャイムを鳴らしてくれば行ってやってもいいのだが、と思っているけれど、一向にそのチャンスは巡ってこない。
▼先日、その理由が飲み込めた。子どもたちが水浴びをしている輪の中に、わたしはボートでの船釣りを終え、戻ってきた。すると、高校を卒業して大学進学した女の子が、子どもたちの面倒を見ているではないか。
▼なるほど。これでは自分に依頼が回ってくるはずがない。しかも、その大学生が見ている子どもの中には、自分の弟・妹がいるのである。これでは、わざわざわたしを呼びにチャイムを鳴らしに行くはずがない。おそらく、今年は一度も招集はかからないだろう。
▼そうなると、わたしが泳ぎに行くのはいつになるのか。あえて泳ぎに行く必要もないが、何だか構ってもらえないのでアピールしようかなという気持ちになっている。アピールしても、構ってもらえないかもしれないが。
▼「自分を喜ばせる見方」「神を喜ばせる見方」これはその人の目の付け所でずいぶん違ってくる。自分の不幸を嘆くのは、客観性があるかも知れないが、それは「自分を喜ばせる材料がないこと」を嘆いていることでもある。
▼「これは、神に信頼を寄せるまたとない機会だ」そう考えるなら、「神を喜ばせる見方」に立って一歩を踏み出せる。「自分を喜ばせる見方」に囚われてはいけない。囚人には自由がない。囚われず、神の招きに心を開こう。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===