年間第15主日(ルカ10:25-37)

昨日の後浜串での地曳き網は大変お世話になりました。網を張るところから、綱を曳いて魚を浜に引き上げるところまで、参加させてもらいました。綱を曳きながら、そんなに遠くないと思っていた場所が、かなり長いこと綱を曳かないと引き寄せられないくらい遠いのだと知り、海の作業も大変だなとあらためて思いました。

子どもたちも、一心不乱に綱を引き寄せていましたので、お腹も空いてきっと昼の魚はご馳走に感じたことでしょう。かなり沖合から、今日は満潮になる時間が綱を引き終わる時間くらいだったので、足もとも良くない中でみんなかけ声を出し、調子を合わせて頑張っていました。

わたしも、つい張り切りすぎて左指にマメを作ってしまいました。ミサの時に左手でご聖体の容器「チボリウム」を持つのですが、指を痛めてしまってしっかり持てなくなるのではないかと心配までしてもらいました。ありがとうございます。

さて、今週の福音朗読は「善いサマリア人」のたとえでした。このたとえでイエスがいちばん問いかけたいのは、「あなたは、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(10・36参照)ということでした。

エスのことばは、律法の専門家が、「自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とはだれですか』」(10・29)とイエスに尋ねたのに答えて言われたものですが、律法の専門家が考えていることとイエスが考えていることの間には相当開きがあります。ここからまず考えてみることにしましょう。

律法の専門家は、「わたしの隣人とはだれですか」とイエスに聞き返しました。この質問は、隣人をある一定の枠で考えようとしている態度が現れています。同じ民族であるとか、同じ地域に住んでいるとか、同じ時期に共に学んだとか、そういう繋がりをもとに、隣人を考えようとしているわけです。

ところが、イエスが言う「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」という問いかけは、いつ、どこででも、わたしはわたしを必要としている隣人に出会うということを前置きにして問いかけているのです。

たとえば、わたしたちが病院に行ったとしましょう。受け付けを済ませるために、待合室にはたくさんの人が集まってくると思います。ほとんどの人が、知らない人かもしれません。ここで、「わたしの隣人とはだれですか」と考えるなら、隣人はだれもいないことになります。

一方、イエスが問われたように、「だれがその人の隣人になったと思うか」と考えるならどうでしょうか。受け付けのために集まっている人をよく見ると、わたしよりも辛そうにしている人、離れた所にひとりぼっちでいる人、前回も前々回も、わたしと受け付けで一緒になった人など、いろんな人が目に留まると思います。

こうした人の中に、わたしが声をかけたら、喜んでくれる人がいるのではないでしょうか。声をかけてもらいたいと待っている人がいるのではないでしょうか。同じ、待合室に集まる人々ですが、「わたしの隣人とはだれですか」と考える場合と、「だれがその人の隣人になったと思うか」と考える場合では、見え方はまったく違うのではないでしょうか。

もう1つ、イエスの問いかけを具体的に考える例を紹介します。15日(月)昼1時半から蛤の総合運動公園で、上五島下五島の司祭たちが集まって、鯛ノ浦にある養護施設の子どもたちと野球の試合を予定しています。夏休み中に、県内の養護施設同士で野球大会があるそうですが、その練習として、鯛ノ浦の養護施設の子どもたちから五島の司祭たちに毎年この日試合を申し込んでくるのです。

わたしたちは、対戦する子どもたちのことをほとんど知りません。野球の試合をしても、また来年の海の日まで、一度も出会わないかもしれません。もし「わたしの隣人とはだれですか」と問うなら、対戦する子どもたちのだれ一人として、隣人とは言えないでしょう。

けれども、「だれがその人の隣人になったと思うか」と考えるなら、わたしは子どもたちの隣人になることができると思います。今年も、この日まで練習を積んで、試合をすることができた。試合は勝つかもしれないし、負けるかもしれない。それでも、真剣勝負を子どもたちとすれば、子どもたちの隣人になれるのです。

わたしたちはイエスの問う「だれがその人の隣人になったと思うか」をもっと生活に取り込んでいきたいものです。わたしはいつ、どこででも、わたしを必要としている隣人に出会うことがあるのです。いつ、どこででも、わたしを必要としている人がいるなら、隣人になってあげよう。その心構えがあれば、何かの一定の枠に隣人を閉じ込めずに、もっと積極的に自分を役立てることができるようになるでしょう。

エスはわたしたちに、「もっと自分を役立てることができる考え方があるよ」「もっと人を思いやり、愛することのできる考え方があるよ」と招いています。「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」イエスのことばは、もっと人を愛することのできる人になるための「最高の招き」「最上の招き」なのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼土曜日に、年に一度の地域主催「地曳き網」が、後浜串(うしろはまくし)地区で開催された。昨年は天気が悪くて中止になっているので、2年ぶりの開催である。地曳き網の中心になっているのは小学生の育友会。言ってみれば、小学生を喜ばせるための網曳きである。
▼午前9時に、沖合に網を入れ始めた。わたしはいくらか裏事情を知っているが、この日に向けて漁師に協力してもらって湾内に1週間ほど魚のえさになるものを投げ込むらしい。魚をおびき寄せ、しばらく滞在してもらって、一網打尽にする計画である。
▼網は投げ入れられたが、浜では漁協の長老格が何やらぶつぶつ言っている。どうやら網の入れ方がイマイチのようで、「どうしてあんな入れ方をするのだろう。かくかくしかじかの手順で網を入れて、急いで湾を締め切らないと、魚が逃げてしまうではないか。」素人のわたしが見ていても、確かに要領が悪い。どうしてなのだろうか。
▼別の長老格に話を聞いてみると、沖合で網を投入するのはその年の育友会で選ばれた人のようで、必ずしも選りすぐりの漁師が作業をしているわけではないらしい。それで合点がいった。綱が砂浜で今か今かと待っている子どもに届くまで、予定では30分だったようだが、1時間近くかかって子どもの元にたどり着いた。
▼この日は満潮が11時17分。つまり綱を引いている間にも潮は満ちてくる時間である。足場は悪く、なぜこの時間に?と思ったりもしたが、昼ご飯の時間もあるのでこの時間なのだろう。狭い場所で苦労して長い時間綱を引いた。小学生のかけ声が、大人にも元気を与えてくれて、本当にありがたかった。
▼頑張った甲斐があって、いろんな魚を目にすることができた。イトヨリだけは、底引きをしている関係で15cmにも満たない物がたくさん入っていたのが可哀想だった。もっと長生きしていれば、わたしがふだん釣り上げているような30cmくらいにはなっていただろうに。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===