キリストの聖体(ルカ9:11b-17)

典礼暦C年の「キリストの聖体」の主日は、ルカ福音記者が書き記したパンの奇跡の出来事を福音に選びました。ルカは、福音を書き残すのにマルコ福音を参考にしたようです。ただ、マルコ福音を丸写しするのではなく、マルコが伝える物語の中で、自分が伝えたいことに合わない部分は省略したりしています。

2つその例を挙げますと、朗読の最初に「イエスは群衆に神の国について語った」とありますが、参考にしたマルコ福音書には「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(マルコ6・34)となっていて、「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れむ牧者の姿」をルカは省略しています。

また、パンを群衆に分け与えるときに、マルコ福音書では「イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった」(マルコ6・39)とあるのですが、今日朗読したルカ福音書の同じ箇所では「イエスは弟子たちに、『人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい』と言われた」(9・14)となっています。

これは、パンを増やす奇跡物語を通して、福音記者が何を伝えたいかを知ると理由が分かります。マルコ福音記者は、「羊を青草に休ませ、豊かに養う牧者の姿」を伝えようとして、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れむとか、群衆を青草の上に座らせるとかの記述があるわけです。

ルカ福音記者は、それとは違うイエスの姿を伝えようと考えているので、あえてマルコの強調点を後ろに下げて、見えなくしているのです。ルカが伝えたいのは、弟子たちが「あなたはキリストです」と信仰告白できるための姿、神のキリストとしての姿なのです。

では弟子たちは、イエスのどんな姿を見て、「あなたはキリストです」と信仰告白できるようになったのでしょうか。単純に、五つのパンと二匹の魚を増やしてくださったことでしょうか。

それは、どうすれば食べ物を大勢の人々に渡せるのか、そのことに気づいたときでした。弟子たちがわずかな食べ物を差し出し、イエスの働きに協力すると、絶望的とさえ見えた大群衆に食べ物が行き渡りました。いったん自分たちのパンと魚をイエスに渡し、イエスから受け取ったパンと魚を群衆に配ったときに、彼らはイエスがだれであるかに気づいたのです。

わたしたちの体験に照らして考えてみましょう。4月29日、わたしたちは高井旅教会献堂五十周年、福見教会献堂百周年を祝いました。この記念事業はどうしてもなし遂げたい事業でしたが、わたしたちの努力で、本当にその日を迎え、すべてをなし遂げることができると、最初からお考えだったでしょうか。

わたしの頭の中は、こんな大きな事業を無事になし遂げるのは、難しいのではないか、わたしの力では無理なのではないか。最初はそんなことを思っていました。だれか代わりに、陣頭指揮を執ってくれないだろうか、一度も経験したことのない大きな計画に圧倒されて、もしかして三年で転勤しないだろうか、そういうことすら考えていたのです。

わたしたちの手元にあったのは、本当はパン五つと魚二匹、それくらいしか持ち合わせがなかったのです。本来なら、これだけの事業をなし遂げるにはあまりにも頼りない出発でした。けれどもわたしたちだけですべてをなし遂げるのではないと途中で気づき、多くの先輩、この土地をふるさとにしている多くの出身者、そうした人との繋がりの中で、一筋の光が見え、道が示されていったのです。

それは、言ってみれば、パン五つと魚二匹を、いったん神さまにお渡しすることでした。わたしたちだけではとても無理です。今ある知恵、今使える人材、お金はこれだけです。どうかこれをあなたの祝福で満たしてください。

そう願ったとき、イエスはわたしたちの五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて渡してくださったのです。イエスの祝福を受けて帰って来たとき、わたしたちが持ち合わせていた物はすべての必要を満たすほど豊かになっていました。

わたしは、今回の高井旅教会献堂五十周年、福見教会献堂百周年をとおして、パンの奇跡を体験し、イエスを「神からのメシアです」と信仰告白できる力をいただいたのだと思います。遠大な計画を可能にしたのはイエスのおかげですと、今は自信を持っていうことができます。

わたしたちの体験は、大切なことを教えていると思います。わたしたちが持っているものを、いったんイエスに渡すこと。そしてイエスの祝福を受けて渡してもらうなら、豊かにしてもらえるということです。イエスが祝福して豊かにしてくださったとき、それはわたしを満たしてくれるだけでは終わらず、わたしを通して多くの人を豊かにしていきます。

では何を、イエスにお渡しすれば良いのでしょうか。何よりもまず、今日一日の始まりを、イエスにお渡しするのがよいと思います。わたしたちは、たとえばこうして主日のミサに集まり、礼拝をささげています。それは、今週一週間を、イエスにいったんお渡しすることです。イエスに委ねることで、イエスが祝福し、もう一度渡してくださいます。その時、祝福された一週間は、わたしだけではなく、数えきれない人を豊かにする時間に変わっているのです。

ミサは、みことばと聖体の食卓に近づくことです。わたしたちの持っているもの、時間も知恵も、大きなことを成し遂げるにはあまりにも非力です。それをささげものとしていったんイエスに渡し、みことばと聖体に近づくとき、大きな祝福を受けます。

キリストの聖体の祭日、いったんイエスに明け渡して、大きな祝福を受けてもう一度授けてもらう体験を積みましょう。体験を通して、「イエスは神からのメシアです」と、力強く信仰をあかしできるよう、恵みを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼教会に集まってくる子どもたちと自分の年齢が、確実に親子ほど離れてきた今、いまだから感じたり考えたりすることがある。水曜日の夜、教会学校を終えた中学1年生の男子1人と女子1人が、「神父さま、帰り道こわいので、一緒に家まで歩いて行ってください」と言ってきた。
▼可愛いなぁ、とまず思った。30代の時なら、一緒にはついて行っても、可愛いなぁとは思わなかっただろう。それと同時に、この子たちと関わりはじめて4年、何かの絆が生まれてきているのかなぁとも感じた。
▼平日朝6時のミサに、2人ずつミサのお手伝いをする侍者がやって来る。「何時に起きたの?」と聞くと「朝5時」という。実際には5時40分くらいにしか来ないが、それでもたいしたものである。そんなこどもが侍者服を着る前に「あー疲れた」と背伸びをした。
▼何気ない仕草で、別に何も考えずにしたことだろうが、わたしは朝疲れていても「あー疲れた」と背伸びをするわけにはいかない。羨ましいというか、微笑ましい。「昨日夜更かししたんでしょ」と聞くと、「うん」と言う。10時まで起きていたそうだ。
▼こうした場面が繰り返されているので、これからは、どこに行っても親子、ある場合はそれ以上年齢差があることを自覚して、接する必要がある。絶対に、「お兄さん」ではあり得ない。わたしが近づけば一歩下がる子どもたちを見て、「どうして近づいてくれないのだろうか」と頭を抱えていたが、そうではない、近づきがたいのである。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===