年間第33主日(マルコ13:24-32)

年間第33主日を迎えました。年間の季節は、来週の「王であるキリスト」の週で最後になります。この年間の季節の終わりを利用して、教会は「終末」について考えさせようとしています。

「終末」は、どちらかというと言葉の響きに「終わってしまう」という感じがあります。医療でも「終末医療」「終末期医療」と言うと「重い病気の末期で不治と判断されたとき、治療よりも患者の心身の苦痛を和らげ、穏やかに日々を過ごせるように配慮する療養法」という特別なお世話を意味しています。

エスが今週の福音で語ろうとする「終末」は、どのようなものでしょうか。天体に異変が起きて、人の子が大いなる力を栄光を帯びて雲に乗って来ると仰います。その瞬間を想像するのは難しいですが、そこに人々が居合わせた時、どんな態度を取ることになるかは想像できます。2通りの人々、1つは恐れに囚われる人々、もう1つは希望に満ちてその時を迎える人々です。

天地が過ぎ去り、人の子が力と栄光を帯びて現れる。これは、この世のものがすべて意味を持たなくなり、人の子がすべての人にとってすべてとなることを意味しています。ですから、もしもこれまでの生活がこの世に頼り切って、神の子イエスへの信頼を持たずに生きていたなら、終末のその日がやって来ると、恐れに囚われることになるでしょう。

一方、この世はいつか過ぎ去ると知って、過ぎ去らないもの、神の子イエスへの信仰に生きてきた人々にとっては、この世のすべてが過ぎ去って神の子イエスがすべてとなったその時は、希望に満ちた場面となるはずです。わたしたちは、この世の終わり、終末がいつになるか分からなくても、それがいつやって来ても今の暮らし方次第で恐れおののく日になるのか、希望に満ちて迎えることになるのかが決まってくるわけです。

そうであるなら、終末を考える場合、それがいつになるのかを推理するよりも、今をどのように過ごすかのほうがよほど大切であるということが分かってきます。終末は千年後かもしれませんし、すぐそこまで来ているのかもしれません。

いずれにしても、わたしたちが今を、過ぎ去るこの世に絶対の信頼を置くのではなく、決して過ぎ去らない神の子イエスへの信仰に土台を置いて生きる。この生き方さえ変えなければ、恐れるものは何も無いのです。

では、神への信頼を置いて生きる姿を、もう少し具体的に考えてみましょう。先週中学2年生の6人は、堅信の秘跡を受けました。大司教さまの前に1人ずつ出て、聖香油を額に塗ってもらい、「主の平和」と肩をポンと叩いてもらったのを覚えているでしょう。

ちなみに、昔の堅振の秘跡では、「主の平和」と声を掛ける時は、司教さまが受堅者の頬を平手打ちしていたそうです。強い信仰を持っているかどうかを確かめる儀式だったのかもしれません。

わたしは、この堅信の秘跡を受けた1日のような過ごし方を、毎日の生活の中で繰り返して欲しいと思っています。大司教さまに毎日会いに行くという意味ではなくて、大司教さまを迎えるために、朝からどんな過ごし方をしただろうか、1時間前にはどんな気持ちで待っただろうか、ミサの間は、どんな心で過ごしただろうか。実際に秘跡を受けてから、どれくらいの喜びを感じただろうか。そんなことを思い出して、毎日の生活に活かして欲しいのです。

堅信式のミサの時、皆さんは今までの中でいちばん気を引き締めてミサに参加したはずです。堅信式のミサでご聖体拝領をした時、いちばん緊張して拝領したはずです。その気持ちを忘れずに、ふだんの教会のミサに参加し、聖体を拝領しましょう。

司教さまがささげておられるミサも、主任司祭がささげているミサも、同じ緊張感で参加しているなら、いつ終末の時がやって来ても恐れる必要はありません。ご聖体を司教さまから授かった時と同じ気持ちでいつもの日曜日に聖体を拝領するなら、終末の日を、希望に満ちて迎えることができるはずです。

堅信を受けた中学生を例に取りましたが、すべての人にとって、今を信仰に固く根ざして生きるコツがあります。それをことばで言い表すと「千年を一日のように過ごす」ということです。

ペトロの手紙2の3章8節に次のような言葉があります。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」

あと1日しかなかったらどのように過ごすか、千年続けてもかまわない生き方があるとしたらどのような過ごし方か。この機会に考えてみましょう。すべての人にとってそれは、「神の子イエスへの信仰に根ざした生き方」のはずです。

今日の聖体拝領、司教さまから授けてもらっているつもりで拝領してみましょう。一つ一つのことに、いちばん心を込めた時のことを思い出して、今日を過ごしましょう。その積み重ねの先にもし終末のその日がやって来ても、わたしたちは希望に満ちあふれてその日を迎えることができるはずです。

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ちょっとひとやすみ
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▼先週の堅信式、上五島地区の中学2年生57人と、成人信徒2人の合計59人が、大司教から堅信の秘跡を受けた。堅信式当日は、午後2時の開始に向けて12時半からリハーサル、1時から歌の練習をしてその時を待った。
▼例年であれば、大司教の到着を受堅者一同で迎えるのだが、今年はそのセレモニーは省かれていた。大司教が断るはずはないので、どこかで「省きましょう」という話し合いがなされたのだろう。緊張感を持って堅信式のミサに参加するためには、大司教を整列してお出迎えするセレモニーはあったほうがよいと思うのだが。
▼堅信式から3日たって、教会での要理の勉強の時間に感想文を書かせてみた。感想文は、課題を与える側になって初めて気がついたのだが、対象となる出来事をどの程度理解し、どのように受け止めていたのか、その出来事にたどり着くまでにどのような困難を乗り越えたのか、その出来事から何を学び、これからに活かしていくのか、それらを総合的に把握するためにとても参考になる。
▼今年の受堅者たちも、さまざまな受け止め方と活かし方を披露してくれた。どんなことに着目して作文を書けばよいのかは教えたが、何を書きなさいまでは指示せず書かせてみた。実に豊かな反応が返ってきた。もう少し、気付いて欲しいなぁと思う作文もあったが、それでも真剣に向き合って書いてくれたのだから良しとしよう。
▼堅信式当日の説教で、「これからは聖霊の七つのたまものを受けた人として接し、意見に耳を傾け、尊重してあげたい」と公言したが、確かに聖霊の恵みは、子供たちに働いたようである。見違えるように、「聞くに値する意見」「聞いていてなるほどと思う意見」を出すようになってきた。
▼以前の子供っぽい意見は卒業した。信仰年を過ごしている子供たちが、堅信の秘跡で頂いた聖霊の七つのたまものにこれからも信頼して、大きく羽ばたいていって欲しい。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===