待降節第1主日(マルコ13:33-37)

待降節、主の到来を待つ季節が始まりました。教会は、この待降節から、1年の暦が始まります。そこで今週わたしたちは、救い主を待ち望む、はっきりとした目的をつかみたいと思います。

待降節に、救い主を待ち望むのですが、なぜ救い主を待つのでしょうかと聞かれたら、みなさんはどう答えるでしょうか。何となくは分かっていますが、言葉に表そうとすると難しいかもしれません。

もう30年近く前になりますが、わたしたちは教皇ヨハネ・パウロ2世が松山競技場でミサをしてくださった時、そのおいでを待ちました。わたしは浦上教会で行われた司祭叙階式の時にも、教皇さまのおいでを待ちました。あのとき皆さんは、なぜ教皇さまを待ったのですかと聞かれたら、何と答えるでしょうか。

この問いかけにも、みなさん何となくは分かっているのですが、言葉にできないかもしれません。わたしだったら、「教皇さまを一目見るために、待っていた」と答えるでしょう。教皇さまにお会いしたくて、寒い中をじっと待っていた。言葉にはならなかったかもしれませんが、これが多くの人の心の中にある答えだと思います。

この、皆が持っている体験と重ね合わせると、待降節になぜ救い主を待っているのかと聞かれたら、「救い主を一目見たいからだ」と答えるのが適切だと思います。何となく救い主を待っているのではなくて、救い主を一目見たい、救い主の近くにいて、一緒にいる実感を持ちたい。そう答える信者でありたいものです。

わたしは浦上教会で教皇さまのおいでをお待ちした時、忘れられない体験をしました。教皇さまが大村空港から車に乗り込まれたという連絡に始まって、今諫早を通過された、今長崎市内に入られたと、刻々と近づいてくる様子が聖堂内に案内されていました。

神学生は、中央通路に近い場所に席が用意されていました。当時椅子席だったのか、単なる板張りだったのか思い出せませんが、運が良ければこれで教皇さまに握手してもらうこともできる。そういう場所に神学生は置いてもらっていました。

ところが、「教皇さまが今到着しました」という案内が流れるや否や、とある修道会のシスターたちがいっせいに中央通路になだれ込んで来て、「どいてぇ!」と叫び、わたしたちを押しのけて、教皇さまに握手をもらってしまったのです。

シスターたちの迫力にも圧倒されましたが、シスターたちがどれだけ教皇さまを待っていたか、どれだけお会いしたいと熱望していたか、その差がこの結果になったのだろうなぁと今になって思います。

待降節を迎え、救い主を待つ季節が始まりました。救い主にお会いしたい。その気持ちでこれからの日々、その時を待ち続けます。その気持ちの中に、約30年前のあのときの熱意、何としても会いたい、遠くからでも眺めたい、同じ場所にいる喜びを味わいたい、そうしたものを織り込めたらすばらしいと思います。

今週わたしたちは、何となく救い主待っているのではなく、はっきりした目的、お会いしたいのだ、一目見たいのだ、その場にいる喜びを味わいたいのだ、という自覚を持って待降節に入ることにしましょう。

お会いするときに、わたしたちがどんな状態でいるべきかも、問われてきます。福音朗読にありましたように、ご降誕のその日まで、目を覚まして一日一日を過ごしていきましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼無事に、巡礼旅行も終えて来た。初日、車で外海方面に出発するにあたり、祈りを唱えてから運転中神の保護を願って出発しようと思い、「では祈りを唱えてから出発しましょう。初めの祈り・・・。」と呼び掛けてみた。
▼すると、後部座席の人が、ロザリオの祈りを唱えますと言い出し、まあそれもいいでしょうとその人の先唱に続いてみんなでロザリオを唱え始めた。ところが、このロザリオ形式の祈り(主の祈り1回、アヴェ・マリアの祈り10回、栄唱1回)が、いつまでも繰り返され、いつになっても終わらない。
▼出発して45分、最初の訪問地である「黒崎教会」に到着。ここでようやく祈りが止まった。それまで、一心不乱に車中で祈りがささげられた。わたしは途中で案内したい場所もあったのだが、それもかなわず、ずっと祈りに付き合わされた。1週間分の祈りを45分で唱えた感じだった。
▼外海地方の巡礼は無事に終わり、その日の残る訪問地、26聖人記念館、浦上教会での聖体訪問、赤城聖職者墓地での歴代浜串小教区主任司祭への祈りを無事に終え、温泉施設で温泉と食事を楽しんだ。ここでご年配ならではのハプニングが。
▼温泉施設は各自にロッカーが貸し出されることになっている。その中に着替えなどを入れて、ロッカーのカギを腕に巻いて温泉に入る。鍵は、腕輪のようになっていて、腕に巻きつける。鍵が飛び出したりすると危険なので、折りたたみ式の果物ナイフのように、鍵本体が収納できるようになっていた。
▼ところが、それが理解できなかったお年寄りの方がいて、鍵が折りたたみのナイフのように収納されている状態だったのを、鍵がなくなったと勘違いし、「わたしの鍵がない。浴槽で鍵を落とした!」と大騒動になった。
▼もちろん、折りたたまれて収納されていたのだが、本人も、周囲も、鍵がなくなったのだと思い込み、浴槽を穴のあくほど見て、それでも見つからないと大騒ぎしたが、あらためて手首に巻き付けている紐の先に付いているビニール製のカバーを確認すると、ちゃんと折りたたまれて収納されていた。もう一つ面白い話があったが、この辺で。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===