受難の主日(マタイ27:11-54)

今日、受難の主日のために、福音書が2度朗読されました。最初の朗読は、エルサレム入城記念です。イエスは、最後の日々をエルサレムで迎えるために、お入りになります。預言者の言葉が引き合いに出されています。その中で、王であるイエスは華やかな王ではなく、「柔和な方」です。

また、「荷を負うろばの子、子ろばに乗って」とあります。「荷を負う」のは、今も昔も変わらないかもしれませんが、身分のある人、王の務めではありません。王の僕が、通常であれば荷を負うはずです。荷を負う仕事は、苦しみを伴う仕事だからです。

するとイエスは、柔和な方であり、荷を負う方であり、荷を負うことで苦しむ方であるということになります。その決意のもとに、エルサレムに入られるのです。このことを踏まえて、二度目の福音朗読を考えてみましょう。

朗読はマタイが描く受難の場面です。イエスはほとんど口を開きません。弁明をしない姿は、最後まで柔和を保った姿です。十字架に磔(はりつけ)にされている姿は、荷を負う姿、苦しむメシアの姿です。わたしたちは、十字架の上から問いかけているイエスと、向き合わなければなりません。

エスを取り囲む群衆がいます。彼らの態度は真っ二つに分かれています。柔和な姿、荷を負う姿、苦しむメシアの姿をしたイエスを見て、心をかたくなにする人々と、心を開き、イエスにより頼もうとする人々です。

エスは問いかけています。あなたは、わたしのこのような姿を見て、心をかたくなにするのですか、心を開き、わたしにより頼もうとしますか。最後まで柔和に、荷を負い、苦しむイエスはわたしたちの救い主ですと、今まさにより頼むことができるでしょうか。

エスに倣って、わたしたちも生活の中で柔和を保ち、進んで荷を負い、苦しみを逃げませんと、正面向いて答えることができるでしょうか。今日はそのことが問われていると思います。イエスに倣って生きますと答える人に、イエスはまことの自由、まことの解放をお与えくださいます。

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ちょっとひとやすみ
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▼過ぎた一週間は外に出てばかり。広報誌の割り付け、音訳養成者の講座で講話、鹿児島で九州視覚障害者情報提供施設の大会、広報誌の校正と、ほとんど教会を留守にしていた。
▼先週の熊本とあわせ、今週もまた新幹線「さくら」に乗った。静かで、早い。ただ今回の鹿児島行の新幹線では、悲しいことに切符を失くしてしまい、どうしても見つからなかったので買い直す羽目になった。
▼どうして無くしたのか、思い出せない。自動改札を通過したし、何両目のどの席まで、切符を見て確認し、車両に乗ったのに、座席に座る前に切符を確認してから座ろうと思ったら、切符が見当たらなかった。
▼ショックで、鹿児島で過ごした時間はわたしの中では遠い思い出のようになっている。どこかで切符を手放したのだと思うが、数十メートルのどこかで落としたのであれば、周囲の人も「落としましたよ」と言ってくれそうなものだ。本当にわからない。
▼ショックを受けたと言えば、月曜日にもガッカリする出来事があった。長崎の大波止ターミナルで、五島産業汽船の窓口に帰りの切符の引換券を差し出したところ、窓口の女性が「鯛ノ浦には車を置いて長崎に出ましたか?」と尋ねられた。
▼はいと答えると、車種を聞いてきたので、「ホンダの・・・」とそこまでは出たのだが車の名前が出て来ない。「えーっと、ナンバーは228、紺色です・・・名前・・・思い出せません。」とうとうその場で名前が出ずに、正式な切符と引き換えた後、待合所で車の名前を思い出そうと真剣に悩んだ。
▼頭の中で、車が出て来た。しばらくしてようやく、「あっ、SM-Xだった」とようやく思い出し、恥ずかしかったが窓口に戻って「車の名前、思い出しました」と告げた。「中田さんですね。SM-Xでしたか。到着時に駐車場に回しておきます。」と答えてくれた。きっと、「この人認知症だわ」と思ったに違いない。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===