主の公現(マタイ2:1-12)

主の公現の祭日を迎えました。占星術の学者たちが、幼子を訪ね当て、ひれ伏して拝み、黄金・乳香・没薬を贈り物としてささげます。今になって振り返るのですが、わたしが赴任してきた小教区では、ご誕生の12月24日から三人の博士を馬小屋から離れた場所にまず置いて、それを毎日少しずつ近づけていました。三人の博士が、星を頼りに旅をしているというわけです。

こちらの小教区でも、よかったら来年は三人の博士をそのような形で活用したらいかがでしょうか。御公現に三人の博士を登場させて、次の週には片付けてしまうのでは、何とももったいないではありませんか。ご降誕の時から三人の博士を置いて、それを少しずつ近づけていけば、とても楽しい降誕節を過ごすことができると思います。

始めてこの試みをした太田尾教会では、三人の博士を取り出して遠くに置いたとき、ある人が、御像がこんなに遠い場所に間違って置かれていると思い込み、自分で馬小屋に持って行き、さらにわたしに「神父さま、三人の博士の御像が変な場所に置いてあったので、馬小屋に戻しておきました」と報告に来ました。わたしから怒られたことは皆さんご想像の通りです。

それから、わたしの勉強不足で、2つの言葉を混同して使っていたのかも知れません。2つの言葉とは、「乳飲み子」と「幼子」です。一般的な意味で、「乳飲み子」は「生後1年ころまでの小児。乳で育てられ、歩きだすまでの時期の子供」であり、「幼子」は「幼い子供。ふつう、満一歳から小学校入学ぐらいまでの子供」ということのようです。

この使い方が当時のイエスさまの時代にも当てはまるとしたら、厳密に区別して使う必要がありそうです。それと同時に、聖書の中に「乳飲み子」と「幼子」が区別して書かれていると考えれば、羊飼いが探し当てた時と、占星術の学者たちが拝んだ時とは、ずいぶんイエスさまの面影というか雰囲気が変わっていたかもしれないと思ったのです。

参考までに、馬小屋のそばに、とある教会に置かれている御像のミニチュアを置いてみました。このイエスさまが、「幼子」と呼ぶくらいの年齢かもしれません。この御像、1体8400円ですが、もし欲しい人がいたら注文をお受けします。

この御像の特徴は、幼子のイエスさまが船の錨に手をかけていることです。おそらく、航海の安全を願って作られた、特別な御像だと思います。いいなぁと感じた方、個人でも会社でも、要望があればお知らせください。

さて本題に入りたいと思います。占星術の学者たち、彼らは次のような行動を取りました。まず、(1)輝く星に気づいてユダヤの国に入り、(2)ヘロデ王に挨拶し、幼子のことを尋ね、(3)もう一度星に導かれて、幼子をひれ伏して礼拝し、贈り物をささげました。

ついで、(4)ヘロデ王に挨拶して自分たちの国に帰ろうとしましたが、(5)「『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」とあります(2・12)。わたしが今回注目したのは、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」この部分です。

もちろん、ここで言われているのは、ただ単にヘロデに挨拶しないで自分の国に帰ることを言っているわけですが、もう少し掘り下げて考えることができるかもしれません。占星術の学者にとって、ヘロデのところに立ち寄ってから自分たちの国へ帰るのは、当たり前のことだったのでしょう。しかし、夢のお告げで危険を察知したとき、彼らは当たり前と考えていた手順を放棄したのです。

わたしはこの様子を、次のように考えました。占星術の学者たちは、別の道を知った、ということです。ヘロデとは違う新しい王、平和をもたらし、人々の心を光で照らし、救う方が生まれ、学者たちはその幼子の前にひれ伏して拝みました。すると、彼らは通常の道ではなく、別の道を通って帰るべきだと感じたのです。

どんなに評判の悪いヘロデ王でも、帰りに立ち寄っていくのが通常の道でしたが、まことの王に出会ったからには、もはや通常の道よりも、別の道を通って国に帰ることが、彼らにとって価値のある選択だと感じたということです。

実はここに、わたしたちへの呼びかけがあると思います。わたしたちも、この人生、別の道を通って、永遠のふるさと、神の国を目指さなければならないのです。この世の生き方に、もし通常の生き方というものがあるとしましょう。その生き方が、救い主を信じることなく、救い主への信仰を土台において生きるものでないとすれば、わたしたちはその道を選ばず、別の道を選ぶ必要があります。

別の道と言いましたが、わたしはその道は、1つだと思っています。すなわち、神が、わたしたちに与えてくださった御子、救い主イエス・キリストを信じ、イエスへの信仰を土台において生きる道です。

もちろん、わたしはカトリックの司祭としてこう言っているわけですが、別の言い方をすると、過ぎ去っていくこの世を信じ、この世を土台において生きる道ではなく、別の道を通っていかなければ、人生の最終目的地にはたどり着けない、ということです。

では実際には、わたしたちはどのような生き方を選んでいるのでしょうか。わたしの人生は、過ぎ去っていく「この世」が、土台になってはいないでしょうか。土台はとても大切で、大雨が降ってもびくともしない土台に、わたしたちは家を立てる必要があります。それは、わたしたちを救ってくれるお方を土台としたときに初めて可能となります。

救い主への信仰を土台とした人生の道は、「この世」の人々からすると別の道に見えるかもしれません。けれどもこの道は、占星術の学者たちを最終的に救った道でした。わたしたちも、最後に救ってくれる道を選ぶ勇気を持ちましょう。

たとえ、理解されないことがあっても、神が示すこの「別の道」を一心に歩むなら、やがて人々にもこの道の価値が分かり、「あなたの歩むその道を、わたしにも教えてほしい」と願う日が来るでしょう。わたしたちは言葉はつたなくても、歩む道で、占星術の学者と同じ証を人々の前に示すことができます。

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ちょっとひとやすみ
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▼今この原稿を、2010年12月31日、巡回教会の福見教会司祭館で書いている。そうなった事情をここで書いてみたい。12月30日は木曜日で、朝は浜串教会のミサ、夕方は福見教会のミサをささげている。そして、金曜日が福見教会で朝ミサなので、木曜日は福見教会司祭館で泊まることにしている。
▼30日の午後、迷った挙句にノートパソコンを抱え、福見教会に移動した。これが結果的に幸いした。福見教会で夕方5時半にミサを終え、夜になり、天気が急変する。角砂糖くらいの粒の雹が降り、エアコンの暖房では部屋が暖まらなくなった。それでもここには石油ストーブやファンヒーターを使おうにも灯油を備えていない。仕方なく布団を被り、早めに寝ることにした。
▼朝起きると、景色が一変していた。一面の雪景色。めったにない積雪。朝起きて気がついたが、軒下の雪は、何度も落ちて積み重なり、腰の高さにまで達していた。司祭館から教会に移動するときも、「ギュッ、ギュッ」と雪の音がする。ミサ後に、信徒が声をかけた。「神父さん、これでは浜串には帰れないよ。普通のタイヤでは、スリップして転落だよ。」そうかもしれない、と思った。
▼朝食は、修道院にお願いして来客の部屋で食べさせてもらった。昼前には移動できるのだろうと思っていたが、昼も動けなかった。それで甘えて、昼食も修道院でお世話になることに。その間も天候が回復する兆しはなく、福見教会司祭館に留め置かれて、ずっと説教を書いていた次第である。ノートパソコンと、b-mobile3G(通信機器)を持っていってなかったら、どうなっていただろうか。持って行かない日もあることを思うと、神様の導きがあったとしか言いようがない。
▼この日、31日は朝からずっと福見教会司祭館にとどまり、夕方5時に高井旅教会のミサをささげて、タクシーを雇って高井旅教会から福見教会経由(オルガン奉仕のシスターを送るため)、そして浜串教会に帰った。おそらく1月1日も、同じようにしてタクシーで帰らなければならないかもしれない。あ、でもシスターたちが浜串に来るから、なんとかなるか。でもならないかも。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===