主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)

あらためて、ご降誕おめでとうございます。今日、25日の主の降誕(日中)のミサは、高井旅教会が24日に回ったために、浜串教会だけの特別なミサとなりました。今日は土曜日なので、高井旅教会は避けてほしいということでした。

さて、今日の福音はヨハネ福音書の書き出しの部分なのですが、この部分から、お生まれになった神の子、救い主イエスについて黙想したいと思います。特に、「言(ことば)」について思いめぐらしながら、与えられた個所から、お生まれになった救い主に近づくことにしましょう。

降誕の出来事と、今日の朗読箇所がいちばん結びつくのは、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(1・14)という箇所でしょう。少しずつ見ていくと、「言(ことば)は肉となった」「言(ことば)はわたしたちの間に宿られた」に分けることができます。

「言(ことば)は肉となった」これをわかりやすく言うと、「言(ことば)はわたしたちと同じ姿になられた」ということです。目で見、触れることができるようになりました。旧約聖書の時代から、神がおられることは疑いのないことでしたが、その神が、信じる人にとっては「今ここにおられる」と言えるようになったわけです。

また、わたしたちと同じ肉となったとすれば、働きすぎれば疲れるし、眠くもなるし、弱ったりする、限界のある姿になられたということです。人間の、限界ある姿も、十分に理解してくださる方となりました。

言(ことば)は、わたしたちの間に宿られます。人間社会の真ん中に、とどまってくださいます。喜びがあり、悲しみがあり、さまざまな思いが混じり合っている人間社会の中に宿りました。

だれもが清くありたいと願っていますが、中には悪に手を染めた人もいます。人間は神がつくられた被造物の中で最高の存在ですが、それでも神にそむく生き方を選ぶ人もいます。そんな、不完全な人間の間に、宿られたのです。こうして、言(ことば)は肉となることで、人間のすべてをその身で感じることになります。

そして、言(ことば)の内に命があります。肉の命だけでなく、滅びることのない、永遠の命があります。言(ことば)が肉となってくださったことで、人間はこの永遠の命を知り、触れることができるようになりました。それはまるで、暗闇を照らす光のようで、世界のすべてを照らしだします。

このような、言(ことば)によってあらわされた素晴らしさが、馬小屋に眠る幼子の中におさめられているのです。たくさんの言い表し方をしましたが、すべてを思い出すことができなくても、何か一つでも思い起こして、馬小屋に眠る幼子を見つめてほしいと思います。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」ヨハネ福音書のメッセージが、この馬小屋の中にすべて実現しているのです。

さらにわたしたちは、この幼子の向こうにあるものにも思いを巡らします。幼子はこれから成長し、わたしたちに神の愛を示していきます。神の愛深さ、憐み深さ、ゆるしの深さを、人間があっと驚く形で示してくださいます。それは命を与えるほどの、人間のために死んで復活するほどの愛です。ヨハネ福音記者が大胆に描いた「肉となった言(ことば)」を、馬小屋の幼子を通して今日一日味わいましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼お腹が空いた。変な話だけど、日中に主の降誕(夜半)の説教を書き、夜は小学生高学年と中学生の要理をこなし、その後、主の降誕(日中)の説教を書きあげた。書き上げたのは夜11時半。最近はすぐに眠くなって長く集中できないことが多いのだが、この日に書き上げなければならない事情があり、書いてはみたがこんな遅くにお腹が空いている。
▼翌日23日(木)は本来なら祭日なのだが、この日は日中に、新築落成した「真手ノ浦教会」の献堂式が行われ、取材かたがた出席することになっている。木曜日となれば、朝は浜串のミサ、10時半から献堂式ミサ、昼は祝賀会、夕方5時半からは福見教会のミサと、非常に厳しいスケジュールとなっている。
▼これでは、クリスマスの説教を考えるのは無理であろう。そういうわけで、クリスマスミサの説教は、夜半と日中を含め、22日のうちにまとめる必要があったということだ。あまり出来栄えはよくないが、背に腹は代えられない。そういう年もあると、自分に言い聞かせるしかない。
▼話は前後するが、今もお腹が空いている。今食べると、不健康な状態をさらに悪化させることになる。悩ましいところだが、申し訳ないが空腹感をごまかすために、夕食の野菜鍋の汁を温めて、少しご飯を入れて食べることにしたい。本当は、食べてはいけない時間帯だが、読者の皆さん、目をつぶってほしい。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===