復活節第6主日(ヨハネ14:23-29)

わたしの記憶の中には、決して忘れないだろうと思える人々が何人かいます。大人であったり子供であったり、出会った時の年齢はさまざまですが、当時の記憶のままに、一生涯忘れないだろうという人がいます。

ある教会での侍者の話をします。2人1組で侍者をしたいという子供が名乗りを上げて、前日に一通りの練習を終え、いよいよ翌日の日曜日から侍者デビューをしました。2人とも低学年の同級生でしたが、1人はとても賢い子で、もう1人はふつうの子でした。

侍者デビューを無事に果たしたのですが、その日はとても賢い子のほうが、鈴を鳴らしたり聖体拝領の時の受け皿を司祭のそばで持ったり、とてもテキパキと立ち回りまして、さすがこの子は気が利くなぁと感心したのです。

それでも、同じ日に侍者デビューをすれば、いつかは同じことをしたくなるわけで、もう一方のふつうの子も、鈴を鳴らしたりさせようかなぁと思いまして、ある日曜日に向けてこう言いました。「今度は、右と左の役割を交代しようか」。

わたしにはある考えがありました。皆さんも同じことを考えるかも知れませんが、気が利く賢い子がそばにいるのだから、役割を交代しても、ちゃんと合図して導いてくれるだろう。そういう計算で、役割を交代させて侍者に就かせたのです。

狙いは半分的中しました。とても気が利く相方が、すべて指示を出してもう一方を助けてくれています。その様子は、祭壇中央でミサを捧げてはいても、わたしにも十分すぎるほど伝わりました。そしていよいよ、鈴を握って鳴らす場面がやってきました。鈴を握りしめて、いつでも鳴らせますよという張り詰めた雰囲気が伝わってきます。

司祭がパンとぶどう酒に手を差し伸べ、最初に鈴を鳴らす場面です。その時、緊張して鈴を握っている子供が隣の相方にこう言いました。「ねぇ、もう鈴を鳴らすところかなぁ?」「鳴らせ。鳴らせって」そうしているうちに、最初の鐘を鳴らすタイミングを外してしまいました。

次に鈴を鳴らすのは、御聖体に変化したパンを、高く掲げる場面です。わたしが「これは、あなたがたのために渡される、わたしの体である」と唱えている時に、鈴を握りしめた子供は相方に「今度はちゃんと鳴らすけん。もうそろそろかなぁ」という声が聞こえていました。

相方はまた「鳴らせってば」と催促しています。今度こそは鳴らしてくれるものと思っていたのですが、御聖体になったパンを掲げても、深くお辞儀をしても、御血に変化したぶどう酒を高く掲げてもさらにお辞儀をしても、いっこうに鈴は鳴りません。

相方は懸命に「鳴らせ。鳴らせってば」と教えてくれているのに「今鳴らすと?もう、鳴らすと?」と言っているうちにどんどん鳴らす場面はなくなり、最後に司祭が御血を拝領する場面が近づきました。

そこへ、わが子の初めての鈴デビューを楽しみにしていた両親が、たまらず会衆席から合図を出しまして、司祭が御血を拝領する間際に、「鳴らさんか!鳴らさんか!」と身振り手振りで伝え始めました。それを見た、鈴を握っている息子は何を思ったか「お母さん、ここにいるよ」と手を振ったのです。

結局、この日鈴は一度も鳴りませんでした。最後の最後、司祭が御血に変化したぶどう酒を拝領したあとに、チリンと鳴ったので「なぁんだ。やればできるじゃないか」と思って振り返ったら、鈴を片付ける音でした。

この、子供の侍者たちは、わたしの心の中で今も生き続けています。ただの記憶なのではありません。わたしにとっては今でも生きているのです。ここで、今日の福音朗読の1節を思い出しましょう。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(14・23)特に、「一緒に住む」というところを考えてみましょう。

2人の子供たちは、懸命に侍者の務めを果たしてわたしに応えてくれました。愛らしいなぁとわたしはこの子たちを思いました。そして2人は、一生涯消えない生きた出来事として、わたしの中で一緒に住むことになります。

これは、イエス愛する人の中に、御父と御子イエスが一緒に住むと言われているのと似ています。イエス愛する人にとって、御父と御子イエスの姿は単なる歴史なのではなく、自分の中に一緒に住んでくださっていると言えるくらい確かなのです。同じように、中田神父にとっての愛らしいあの2人の侍者は、単なる思い出で残っているのではなくて、その存在が、今も生きているかのように確かなのです。

誰にとっても、今も生きているかのようにその存在がはっきり感じられる出来事が、1つや2つはあると思います。その、鮮やかな出来事を持っている皆さんに語りかけたいのです。御父と御子イエスの存在は、わたしの中で「一緒に住んでおられる」と言えるくらいに鮮やかに刻まれているでしょうか。

御父と御子イエスの姿が、わたしの中で一緒に住んでおられる実感がないという人もいるでしょう。その人のために、2つのことを示しておきたいと思います。どうしても理解できない出来事や受け入れられないことを抱えている人が、わたしの抱えている悩みはどんな意味があるのですかと神に問いかけ、問いかけ続けた結果その意味が説き明かされたとしましょう。

それは、あなたの中で御父と御子イエスが一緒に住んでくださっているしるしです。イエスはこう仰っています。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(14・26)あなた自身の力ではどうしても理解できなかったことでも、一緒に住んでおられる御父と御子イエスが、聖霊を通して抱えていたものの意味を説き明かしてくださったのです。

また、さまざまな心配を抱えて暮らしながらも、心の中に大きな平安を感じているとしましょう。周りの人からも、「どうしてあれだけの難しい中で暮らして、そんなに心を落ち着けて暮らせるのか知りたい」と声を掛けてもらったとしたら、それは、あなたの中で御父と御子イエスが一緒に住んでくださっているしるしです。

エスはこうも仰っています。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(14・27)あなた自身の力では平和を取り戻せない困難の中で、一緒に住んでおられる御父と御子イエスが、聖霊を通して平和を与えてくださっているのです。

もし、「わたしが今の暮らしができるのは、御父と御子イエスが一緒に住んでくださっているおかげかも知れない」と感じることができるなら、あなたには十分に証しをする材料があります。その材料を携えて、今週新たな生活に入ることに致しましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼ゆるしの秘跡を受ける人のために、告白場に座って待機していた。どやどやどやと人が入れ替わり立ち替わり入ってきた。5人くらいいただろうか。すべて男性だった。途中、3人目か、4人目で考えた。「なぜ、今日は男性ばかりやって来るのだろうか。」
▼考えているうちに気がついた。今、3週間海の上で命を削って働いていた男たちが、1週間の休みのために陸に上がっている時期なのだと。長崎教区では教会祝日表というのを独自に編纂しているが、この長崎教区版の祝日表には旧暦も掲載されている。その4月と5月を見てみると、なるほど、旧暦の15日を挟んだ時期になっていた。
▼このタイミングでしかゆるしの秘跡に与れないお父さんたちだったのだなと思うと、もう少し早くそのことに気付いて、早めに告白場に座って、待ってあげればよかったなと反省した。もちろん、次の時には早めに告白場に座って、わたしも人を獲る漁師になるつもりである。
▼告白を済ませた男たちは、今日5月5日朝に船に乗って東シナ海へと出航していった。聞けば、魚釣島尖閣諸島の1つの島)周辺まで漁に出るらしい。沖縄と台湾の中間あたりの場所である。3週間、海に出たままの厳しい仕事。わたしが小学生の頃は父は27日間連続だった。
▼そんなことも知らずに、3日間しかない子供とふれ合う時間を、子供であるわたしは面倒くさがって逃げ回っていたことを思い出した。可哀想なことをしたなぁ。今日は5月5日。命がけの漁場に行く父親を、今の子供たちはどんなふうに見送ったのだろうか。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===