主の洗礼(ルカ3:15-16,21-22)

主の洗礼の祭日を迎えました。今までずっとこの箇所を読んできたのでしょうに、今年になって初めて、気付いた点があります。ヨハネが民衆に語っている言葉です。

「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(3・16)

よく読み返すと、「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、(中略)その方は、聖霊と火であなたちに洗礼をお授けになる」と言っています。同じ1人の人が、2回も洗礼を受けるものなのでしょうか。

洗礼者ヨハネは、自分の授ける洗礼と、「その方」と呼んでいるイエスによる洗礼とを、はっきり区別していたと思います。ヨハネが授ける洗礼は、徹底的な悔い改めのしるしで、道徳的な清さに人を招くものでした。水は、この世の物質であり、この水で人を変化させるのは、道徳的な部分に限られていたのです。ヨハネはそのことを十分理解していたはずです。

ところが、ヨハネが予告する「聖霊と火による洗礼」は、道徳的な悔い改めをもたらすものとはまったく次元の異なる何かを言い表そうとしていました。ヨハネ自身は、「聖霊と火による洗礼」を、「裁きをもらたす力をもった清め」と考えていたようですが(3・17参照)、いずれにしても、イエスが授ける洗礼は、人をこの世の清さに結び付けるものではなく、神がもたらす清めに人を結び付けるものだと理解していたのです。

ヨハネは、イエスが授ける洗礼を、ヨハネ自身が授ける洗礼とはまったく違うものであると理解していました。同じ物の繰り返しであるなら、2度授ける必要はありませんし、2度授けるべきではないでしょう。

七つの秘跡のことを考えてみましょう。わたしたちは堅信を2度受けることはあり得ません。ところが、叙階は、助祭叙階を受けた人が司祭叙階を受けますし、神がお望みになれば、司祭叙階を受けた人が司教叙階を受けることもあるわけです。「叙階の秘跡」は、7つの秘跡の中のただ1つの秘跡ですが、司教叙階を受けた聖職者は、叙階の秘跡の充満の度合いが違うわけです。

「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」(3・21-22)イエスヨハネから洗礼を受けた時、水で洗礼を受けたことでこの世と結び合わされました。

エスが清めを受ける必要は一切ありませんでしたが、この世の一切のけがれに死んだのです。そして、「聖霊がイエスの上に降って来た」ことで、天の父と結ばれている姿も示しました。これからは、信じる人がイエスの授ける洗礼によって、イエスが受けた両方の姿、この世のけがれに死に、神のいのちに結ばれて生きることになります。

さて、祭壇脇には、皆さんが初めて実物を見る「イエスの洗礼」を表現した御像があります。「中田ザビエル工房」で制作してもらった御像です。昨年は、まだ着色しないままの段階での写真をお見せしたと思います。今年は、無事に完成し、皆さんにお披露目となりました。

この御像を見ながら、もう一度イエスの洗礼の意味合いを確認してください。イエスは、この世のけがれに死に、聖霊が注がれたことで天の父との固い絆を人々に示したのです。今週は、このイエスの洗礼の姿から、わたしたちの生き方の模範を学必要があると思います。

つまり、ヨハネが予告したように、水を使った洗礼を受けた人はこの世の清めに結ばれるけれども、聖霊と火による洗礼は、人を天上のものに結び付けるのです。イエスの中に、その両方の姿が示されました。

そして、わたしたちの生活にどのように結びつくのかを探ると、天から聞こえた声が、教えてくれると思います。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3・22)イエスの姿に、天の父の心に適う姿があるわけです。それは、この世のけがれに死に、神のいのちに生きることです。

もちろん、イエスの姿を完全に写し取ることはできません。そのようなことを天の父の声が命じているのでもないでしょう。それでも、わたしたちは繰り返し、天からの声を自分に言い聞かせることができます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」

わたしたちの生活には、知りながら、自分の意志でおこなう決断があります。間違いもあるでしょう。けれども、繰り返し、天からの声を心に響かせて考えるわけです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」わたしの決断は、この天からの声に沿うものだろうか。あえて、天からの声に背くようなことをしなかっただろうか。この点に注意を向けながら生活するなら、わたしたちはイエスと同じ姿を、人々に証しすることができると思います。

大きな証しでなくても構いません。よくわたしが例えに出す、食前食後の祈りでよいのです。食事の時に、人前であっても、祈りによって天に結ばれている姿を証しして欲しいのです。人前だから、祈りを隠す。それは、この世に縛られています。この世の誘惑、けがれに死ぬため、人前でも祈りをするのは立派な証しになると思います。

今週、イエスの洗礼の姿を通して、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という生き方があることを学びました。ぜひ、わたしの生活に、生かしましょう。

頭で分かっているだけでは足りません。だれかの生活に当てはまっているだけでも足りません。他の誰でもない、わたしの生活に当てはめていく。そのための力を、天の父に願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼正月休みを取って五島の新上五島町鯛ノ浦に帰省した。小教区の主任司祭にお許しをもらい、福音朗読のあとに短い説教をした(1度、長く話してしまった)。その中でついでに話したことだが、えらくシスターに受けたのでここで書いておきたい。
五島産業汽船に乗る前にもっとも頭を悩ますのは、当地の主任司祭と修道女たちにどんなお土産を買って帰るかである。ほかには悩みはないと言ってもよいくらいだ。今回は、あまり季節感はないけれども、ハウステンボスの福袋を買って帰った。
▼長崎から帰るのに佐世保ハウステンボスのお土産というのはいかにも変だが、「わざわざ買ったのよ」みたいな雰囲気はあると思ったのでそう決めた。中身は、ソーセージとか、チーズとか、お菓子の詰め合わせだったと思う。個人的には、福袋そのものが、ハウステンボスオリジナルのトートバッグなので、役に立つと思って買ったつもり。
▼お土産も買い込み、ようやくこの日1便だけ出航した最終16時の便に乗り込む。すると自分の目の前に、違う小教区の若い主任司祭が座っている。「よぉ」と言うと「おぉ」と答える。先輩風吹かせるのは、こんな時だけだなぁ。
▼鯛ノ浦に到着すると、シスターがターミナルに立っていた。おー、渡りに船ということで、声をかけてお土産を預ける。「しすたー、修道院に戻るよね。これ、お土産。」白いベールのシスターだった。これで仕事が1つ減った。主任司祭の分は明日のミサの時でもいいか。そういうことで自宅に直行した。
▼翌朝、眠い目をこすりながら、ミサに行く。もちろん主任司祭へのお土産も忘れない。手渡しして祭服に着替え、いざ祭壇に出てシスターたちに目を遣る。そこでわたしは凍りついた。誰も、白いベールなどかぶってないではないか!ではあのお土産を受け取ったのは、どの修道院のシスターだったのか?
▼唖然として、説教でも何をしゃべったのか思い出せないくらいだったが、ミサが終わって祭壇の片付けをしに来たシスターに、恐る恐る尋ねる。「シスター。修道院に、お土産とか来てなかった?」
▼尋ねたシスターがビックリしたように答えた。「神父さま、受け取ったのはわたしですよ。確かにいただきました(笑)」脅かすなよ〜。でも白いベールの謎は?そのことも聞いてみると、「養護施設では、看護士みたいな全身白い修道服を着るのですよ。」そっかぁ。
▼そんなオチを、翌日の説教の枕に話したら、シスターたちが笑い転げていた。この手の話が面白いのだとしたら、わたしは笑いのツボを押さえていないに違いない。そんな話は馬込教会ではしないからだ。それとも、笑いは土地によって違うのだろうか。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===