年間第23主日(マルコ7:31-37)

今週の福音朗読は、耳が聞こえず舌の回らない人がいやしてもらう奇跡の場面です。イエスの前に連れて来られた人は、自分が置かれている辛い状況から解放されたいと心の底から願っていたはずです。

こんな中で、イエスは動き出しました。指をその両耳に差し入れ、唾をつけてその舌に触れます。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって「エッファタ(開け)」と言いました。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになったとあります。

エスが「エッファタ(開け)」と言って開いたものは何だったのでしょうか。それは、誰も開くことのできないもの、人間の力では決して開くことのできないものでした。今回は、耳が聞こえず、舌が回らないという深刻なハンディでしたが、ほかのことでも当てはめてよいと思います。

たとえば、死者を生き返らせるために「ラザロよ、出てきなさい」(ヨハネ11・43)と呼びかける場面であるとか、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」(マルコ5・41)と命じる場面なども、イエスにしか開くことのできない扉を開く偉大なわざだと思います。

わたしは、イエスが仰せになった「開け」ということばに、もっと広がりをもって考えることで、イエスのこの呼びかけと自分たちを具体的に結び付けることができるのではないかと思いました。イエスが「開け」と仰せになるとき、それはわたしたちの具体的な生活、しかもあらゆる部分で、閉ざされていたものを開くように求めているということです。

わたしたちには、生活の中でイエスによって開いてもらう必要のある部分が、まだたくさんあるのではないでしょうか。たとえば、わたしたちの中のある人は、あきらかに目上の人の前では自分をよく見せようと振る舞い、自分よりも下の立場にある人に対しては横柄な態度を取っています。

エスはそのような人に、すべての人に公平に振る舞いなさいと呼びかけます。目上の人、目下の人で振る舞いを変えるのではなく、心を開いて、だれに対しても寛大に振る舞うように、「開け」と仰せになっているのだと思います。

また、ある人は権威を振り回しています。責任者という立場を全体の利益のためではなく自己満足のために使うのです。権威を振り回すことは、周りの人にとっては暴力をふるわれているのと同じです。自分以外のすべての人を傷つけてしまいます。むしろ、権威を全体の利益のために、奉仕のために活用しなさい、「開け」と、イエスは呼びかけるのです。

ある人は、家庭の中で暴力的になっています。夫が妻に対して、父親・母親が子供に対して、あるいは子供が父母に対して、暴力をふるってしまいます。誰も、家庭の中で暴力をふるうことなどゆるされていません。親の子に対する威厳は、子を育てるために神から委ねられたものです。決して言いなりにするためのものではないはずです。

夫と妻の関係も同じです。どちらも、配偶者に対して支配する立場にはないのです。イエスは今日の出来事を通して、家庭の中にも「エッファタ(開け)」と言っておられるのではないでしょうか。

まだあります。ある人は、生活に表と裏があります。人に見える部分では社会に貢献していますが、見えない部分で悪事を働いている人もいます。イエスはこれらの人々にも「開け」と命じ、闇から抜け出すように呼びかけるのです。

ここまでは、社会生活に目を向けてみましたが、もはや社会だけではなく、教会の中でも問題が起こっているかも知れません。もしかしたら、教会の中では社会生活以上に深刻な問題が起こっているかも知れないのです。

なぜかと言うと、この部分に関してすでに一歩も二歩も取り組みが進んでいるので、社会の中ではいつか問題が表に現れて、社会的な裁きを受けることになります。ところが、教会の中では問題が表に現れにくく、表沙汰にしないようにしよう、できるだけ隠そうという傾向にあるからです。

もうすでに、悩みを抱えて打ち明けられずにいる人がいるかも知れません。自分さえがまんすればいい、自分が一人で問題を抱えればいいと思い詰めて、一般社会以上に問題が深刻になっている可能性があります。教会の中での権威を使っての言葉や態度での暴力など、成熟した社会であればとっくに訴えられているようなことさえも、まだまだ隠れて表に出ていないかも知れません。

わたしはもはや、これは他人事ではなくなっていると思います。問題を抱え、解決策を探して苦悩している教会共同体、神の家族に対しても、イエスは「エッファタ(開け)」と命じているに違いありません。

信者同士で何気なく言ったこと、たとえば「結婚信者のくせに」というような言い方は、本当は相手を深く傷つけるのです。相手はたまったものではありません。

いちばん注意が必要なのは司祭自身です。司祭が、信徒を言葉で追い詰めたり、不快にさせたりしていることがきっとあるだろうと、正直に認めるべきです。「こんなことも知らないのか」と態度に表して相手の方を失望させたりしていたら大変なことです。イエスは教会の立場ある人たちにも、「エッファタ(開け)」と仰せになって、本来の姿に立ち戻るように迫っているのではないでしょうか。

特に、教会生活での問題を、もっと考える必要が出てきていると思います。差別、虐待、抑圧、どれをとってももはや教会と無縁とは言えなくなってきているのではないでしょうか。

弱さや未熟さ、誤解や偏見、傲慢さなどで本来の姿が見えなくなっているわたしたちに、イエスが今日「エッファタ(開け)」と仰せになっている。真剣にそのことを受け止めて、問題を抱えている部分があるとしたら、どうかイエスによっていやしていただけるように、恵みを願いたいと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼長崎弁で「何(なん)ばしよっとや」も、アクセントや、使用する状況によって意味が違ってくる。興味津々でのぞき込んで「何ばしよっとや」であれば、「わたしにも教えて欲しいなぁ。何をしてるの?」という意味になる。
▼ところが、「こんなことして、いったいどういうつもり?」という意味でも「何ばしよっとや」と言う。ここから具体的な話。メジナという魚を料理するのに、沸騰したお湯をメジナの皮に注いで臭みを取り、キンキンに冷えた氷水にくぐらせて霜降り状態にして刺身に切って食べる方法がある。
メジナは海藻を好んで食べるため、皮には独特の臭みがある。好きな人はこの臭みがたまらないわけだが(自分もそう)、上品に食べる方法として、霜降りにするのはわりとよく知られていると思う。そこで料理長に、「クロ(メジナ)はお湯をかけて、刺身で食べよう」と指示を出した。
▼ところが料理長は、半信半疑のままクロの身の部分にお湯をかけ、皮を包丁で取り除いて刺身にして出した。あえて表現すると、「湯引き」のような状態で食卓に並んだわけである。そこでついこういう言葉になった。「何ばしよっとや」。
▼料理長の性別は想像にお任せする。ガミガミ叱られてなお何かを吸収するのは男性だろうか。女性だろうか。反対に、優しく説明してはじめて学習するのは男性だろうか。女性だろうか。料理長はその日、メジナ霜降り状態での刺身を学習しなかった。
▼またとない絶好の機会がやってきた。メジナを再び手に入れたのである。今度は実演をして、沸騰したお湯を皮にかけ、直後に氷水にくぐらせて、皮付きのまま刺身にして料理長に味見させた。料理長曰く。「あっ、コリコリしてとても美味しい」。
▼当たり前じゃと思ったがここはがまんして、「でしょ〜。これが霜降りよ」と付け加えると、「てっきり身のほうにお湯をかけて、皮を取り除くのだと思ってました」と言われた。実際そうやって出したことを気にしていないようである。あり得ないが。
▼ここでわたしが料理長のことで学習したこと。ガミガミ言っても、萎縮するだけで絶対に学習しません。まったく耳に入っていません。反対に、優しく説明すれば、ガミガミ言って鍛える場合の数倍早く学習してくれます。これ、ほんとの話。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===