神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)

復活節第2主日は「神のいつくしみの主日」です。今年、「神のいつくしみ」をわたしたちが考え味わうために、「週の初めの日」に復活した主との出会いが繰り返されていることに注目したいと思います。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」(20・19)トマスがいない間に復活の主は現れました。週の初めの日の夕方でした。

ここにはトマスがいませんでしたが、次の「週の初めの日」、トマスも一緒にいた時にイエスが再び現れました。「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」(20・26)この八日の後というのは、最初の出現と同じ「週の初めの日」を指しています。

エスは「週の初めの日」をわざわざ選んで弟子たちに出現したとヨハネが書き残した狙いをまず考える必要があります。ヨハネ福音書が書き残された90年代、すでに迫害は現実のものとなり、「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(20・19)という様子は、使徒たちにだけ起こった過去の出来事ではなく、今いる信者たちにも同じように当てはまっていたと思われます。

そのことから想像できることは、使徒たちが恐れて家に閉じこもっている時イエスが現れて「あなたがたに平和があるように」(20・21)と呼びかけたのは、単に使徒たちにだけ当てはまるのではなく、同じように迫害に直面していたヨハネの共同体も、復活したイエスが自分たちの共同体を力強く励ましてくださると受け取ったということです。

ヨハネの共同体が形づくられた頃には、安息日の翌日、つまり週の初めの日に、イエスを信じる者たちが集まっていたはずです。自分たちも週の初めの日に集まっている。迫害を恐れて、家に鍵をかけて集まっているかも知れないけれども、置かれている状況はかつての使徒たちと同じだから、わたしたちも復活の主に「あなたがたに平和があるように」と言ってもらえるのだ。そう言い聞かせていたに違いありません。

まずここに、神のいつくしみを見て取ることができます。イエスに選ばれた使徒たちは、失意のうちに家に集まっていました。その使徒たちをイエスはいつくしみで包んで下さいます。八日後の週の初めの日には、その場にいなかったトマスも含め、復活の主が大きないつくしみを示して下さいました。

その出来事を、ヨハネ共同体は自分のこととして受け止め、期待していたのです。自分たちも恐れてはいるけれども、週の初めの日に集まっている。わたしたちの集まる「八日の後」にも、イエスはおいでになり、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださるのだ。そんな期待に包まれて、迫害にさらされていたヨハネ共同体は神のいつくしみに触れたのだと思います。

ヨハネ共同体の体験は、2000年後のわたしたちにも受け継がれています。生活の中で挫折を味わい、信じていたことが裏切られ、これまでにない非難や無理解の中にさらされる。さまざまな辛い体験をして週の初めの日にここに集まっていると言えるかも知れません。だれも慰めることができない。だれも問題を解決できない。そんな人間不信の中で、心の戸に鍵をかけてここに集まっていると言ってもよいでしょう。そこへ、イエスが現れて、「あなたがたに平和があるように」と声をかけ、わたしたち一人一人にご自分のいつくしみを示してくださるのです。

ヨハネ福音記者は、「週の初めの日」に重ね合わせてイエスがいつくしみを示すという形にまとめています。週の初めの日に集まって賛美をささげているわたしたちに、かつてと同じように神のいつくしみが注がれることを期待することは、決して間違っていないと思います。

一つの疑問にも答えて、今週の説教を結びたいと思います。本当にわたしたちは、神のいつくしみを期待できるのだろうか、という点です。

この疑問に答えを見つけるヒントは、弟子たちが恐れに捕らえられて家の中にいたのを思い出せば十分だと思います。弟子たちは決して勇敢だとは言えない、普通の人々でした。

エスと生活を共にしていた時に、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10・28)と言われて、ユダヤ人を恐れる必要はないと聞かされていたはずなのです。それでも、弟子たちは恐れに縛られていたのです。

そこへ、イエスは弟子たちの恐れを吹き飛ばすほどの圧倒的な存在感で現れ、弟子たちを喜ぶ人に変えたのです。「弟子たちは、主を見て喜んだ。」(20・20)それはトマスも同じことでした。「決して信じない」とまで言った彼が、「わたしの主、わたしの神よ」(20・28)と言ったのです。

恐れに縛られている人を自由にするのは並大抵のことではありません。恐ろしさのあまり腰が抜けた人を避難させるとか、行動に駆り立てることがどんなに困難か、十分想像できるでしょう。恐れている使徒たちをすら、イエスは喜ぶ人に変えたのです。これが、神のいつくしみの力だと思います。

復活の主は今も、恐れ、おびえて信仰を守っているわたしたちを喜ぶ人に変えます。自分が信仰を守ることでも精一杯なのに、信仰を子に伝えるとか、ましてや知らない人々に告げ知らせるなんて、夢のまた夢だとおびえている時に、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われるのです。

さらに、手とわき腹とを見せて、「あなたが伝えるべきものはこれです」と、指し示すのです。恐れで縮み上がっているかも知れないけれど、わたしがあなたの心を解き放ちます。喜びで満たします。だから、神のいつくしみがあなたの心に伝わった頃、あなたも次の人々に神のいつくしみを伝えてください。そう言っておられるのではないでしょうか。

復活の主が週の初めの日に繰り返し現れたこと、そして手とわき腹を見せてくださったこと。この2つはわたしたちに神のいつくしみを示すまたとない機会となりました。あなたが週の初めの日に来てくれるなら、必ずいつくしみに触れることができるようにして上げます。あなたにどんな過ちや裏切りがあっても、わたしはすでにこの傷によって受け止めたのだから心配しないで。そう言って、わたしたちを喜びで満たしてくださるのです。

週の初めの日が、2000年前から繰り返されています。神のいつくしみもまた、その時から決して無くなっていないことを今日のこの礼拝の中で確認しましょう。神のいつくしみを心に受けて、生活の場に持ち帰り、生活そのものを神のいつくしみが現れる場としていけるように、恵みを願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼東京での会議に出席した。出発便の飛行機に乗った時間帯、天気が良く、雲もそんなに広がってなかったおかげで、興味深い景色を眺めることができた。それは、瀬戸内海と四国上空を飛行中の時だった。まるで、地図帳を広げてみているような気分だった。今であればグーグルアースを開けば、同じような景色を見ることができるだろうが、空から見た島々のシルエットは感動すら覚えた。
▼会議にはカトリック新聞のいつもの諮問委員が顔を揃えた。3月いっぱいで編集長の任務を終えた神父さまは、責任者の立場を降りてもこれからのカトリック新聞の行く末が気になっているようで、あー、基本的には真面目な人なんだなぁと再認識した。編集長時代はちょっとビックリするような発言をしたりしていたので本心を計りかねていたのだが、やはり真剣に新聞の未来を考えている人だったようである。
▼会議が終わってから、前編集長の慰労会を行った。会場に行く途中、クレーンが道路に倒れてきた現場を通り、やはり怖いなぁと実感できた。取材陣も相変わらず現場に張り付いていた。慰労会では主役そっちのけでビールを飲み、宿泊先の日本カトリック会館に戻った時にはどうやって眠ったのか知らないくらいの状態だった。朝、目が覚めると、馬込教会司祭館のベッドから起きたつもりになっていて、同じ洗面台に向かおうとしたり、ミサに出ようとしたりしていたのがおもしろかった。
▼早めに宿泊先を出て、横浜在住の人に会いに出かけた。本来であればまだ病院に入院しているはずだったが、ずいぶん早く退院を許され、鎌倉、湘南と案内してもらった。土地勘がないので間違っていたら申し訳ないが、面会した人が籍を置いている教会、利用している最寄りの駅、住まいがどれも近かったのには驚いた。便利そうだ。その後観想修道会のチャペルを訪問し、クッキーをプレゼントにもらった。湘南では生シラスをご馳走になったり、案内してくれた人がここで洗礼を受けたのだというとある施設内の聖堂にもおじゃまして祈りをささげてきた。
▼食事は横浜中華街。酢豚がおいしい店を案内してもらった。あの店は写真に収めたので次は自分で訪ねていけると思う。また、店には入らなかったが、サソリが入った焼きそばを出している店が目に留まり、焼きそばのポスターを写真に収めてきた。姿のまま入っていた。だれか食べる人がいるの?
▼この日は別に、空港でも待ち合わせをしている人がいて、あまり時間が取れなかったがコーヒーをいただきながら楽しいひとときを過ごすことができた。東京には足跡も残っていないわけだが、会って楽しく過ごせる人たちがいる。生活できるか?と聞かれたら首をひねるが、活気に溢れた魅力的な都市であることは間違いない。来週はネットで利用しているブログの話。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===