聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)

本日聖金曜日の説教は、儀式書の規定にも「受難の朗読後、必要に応じて簡単な説教を行う」とあります。手短に述べたいと思います。

聖金曜日の儀式の始まりは、赤い祭服を着用した司祭が祭壇に一礼して床に伏すところから始まります。わたしは同じ動作を司祭叙階式の時に行いました。わたしはこの床に伏す動作の間に、ごく自然な流れで司祭叙階の時のことを思い出すわけです。

司祭叙階の時、わたしは床に伏して何を考えていたかと思い返してみると、何を考えていたかよりも、たしかに床に伏したこと、はっきり神さまの前にひれ伏したことのほうが印象深くなっています。人間が、大勢の目撃者の前で、床にひれ伏したこと、だれをもはばからず、人間がひれ伏す相手がここにおられるということを証ししたことが、意味深いことなのかも知れません。

このようなことを、今年の聖金曜日の始まりに考えて典礼に入りました。イエスは、十字架にはりつけにされ、ある意味ですべての人の前ですべてを奪い取られて無となりました。全人類よりも重い存在である神の独り子が、無にされたことを、わたしたちは見過ごしてはいけないと思います。

なぜ、全人類よりも重い存在である方が無となられたのか。それは、全人類を救うために他なりません。すべての人よりも低くへりくだったので、御父は御子のゆえに人類を救ってくださったのです。

わたしたちは昨日の聖木曜日の典礼の中で、イエスが身をかがめたことですばらしい模範を示し、神のわざが実を結んだことを学びました。今日も、イエスはこれ以上ないへりくだりを示しました。このへりくだった姿に、神のわざが実を結んだのです。

わたしたちの目には、すべてを奪われた、みじめな姿しか映っていないかも知れません。けれどもイエスは、このようにしてだれにも真似のできない忍耐を示し、最後まで柔和謙遜な生涯を全うしたのです。ここに、神のわざが実を結びます。

わたしたちは、イエスが命をかけて見せてくださった模範を受け取る必要があります。すべてを奪われたイエスに、全人類の救いという神の偉大なわざが実を結びました。わたしたちも、失うものは何もないというほどにへりくだった時に、わたしの上に神のわざが実を結ぶのです。

すべてを失ったイエスと自分を比べて、わたしはまだ何かを捨てきれずにいるのではないでしょうか。何かにしがみついているのではないでしょうか。イエスの他に、失うことを恐れるものはないのだと心に決める時、わたしは神の立派な器になると思います。イエスの歩みを、今日写し取って帰ることにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼だんだんカリカリしてくる。一週間で木・金・土・日の説教を書く必要があるのだから、だんだん切迫してくるのも分からなくもない。ただいらだちを隠さないものだからぶつける物や相手があれば所構わずぶつけてしまう。うーん、反省しきり。
カリカリしているが、頭の中ではずっとゴールした後の爽快感を思い描いている。復活祭を終え、一息ついてまた教区報の割り付けを完成させれば、諮問委員会という仕事ではあるが飛行機で遠出ができる。決して東京に行きたいわけではない。沖縄でも奄美大島でもいいのだが、飛行機でひとっ飛びした場所に気分転換に行けるのだ。
▼これからは頭の切り替えが肝心。たとえ途中でどんな用件が舞い込んできても、「きっと復活徹夜祭の説教のアイディアに貢献する何かを神さまが与えてくれるために、間に挟んでくれた用件なのだ」と思うこと。決して「ちぇっ!この忙しい時に。いったい何考えてるんだろう」なーんて言わないの。
▼賄いさん体調不良。体型は無印良品だけど。点滴を打って2時間安静。本人は快復したと言っているが、わたしは信じない。もしかしたらわたしがストレスを加えているかも知れない。おー、これは大変。それにしても、昨日日曜日に体の変調を来したと言っているが、昨日はたぶん10分も会話していない。
▼午前中はミサをたてつづけにささげてすれ違いだし、午後は年忌の行事が入って話してないし、夕方はお休みを出して司祭館には自分で用事があって来ただけでわたしは用事がない限り何かを言いつけたりはしない。いったい何が原因で、昨日体調に異変を来したのだろうか。もしやこれまでの積み重ね?おー怖い。
▼今年の復活祭、直接には洗礼の喜びを小教区で迎えないけれども、わたしと関わりのある人が他県で洗礼を受ける。1年以上、メルマガを読み続けてくれているし、その人とは1月に馬込教会で直接会っている。わたしが案内したのではないが、ぜひ喜びを分かち合いたい。応援しているよ〜。お祈りしているよ〜。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===