年間第6主日(マルコ1:40-45)

土曜日の「聖パウロの手紙を学ぶ会」は、順調に人数が集まっています。昨日の2月14日は、馬込教会も、大明寺教会も、30人くらい来ていました。みんなチョコレートを持っているかなと思ったら、チョコレートを持っていたのは1人だけでした。

わたしはその日、まず馬込教会の部に参加して、後半は車で移動して大明寺教会に参加しました。途中で、古い司祭館の写真と比較した新しい司祭館の写真が撮影したくなって、「聖パウロの手紙を学ぶ会」の途中で司祭館裏の壁に脚立を掛けて司祭館のテレビのアンテナのある場所によじ登ろうとしたのです。

すると、わたしの体重を支えきれなかったのでしょう。脚立が地面と接している根本から滑りまして、大きな音を立てて倒れました。わたしは脚立に乗ったまま2メートルちょっとのところから滑り落ちまして、軽い打撲の被害を受けました。根本から滑るとは予想してなかったものですから、滑り落ちる間何もできず、死ぬ思いをしました。

昨日の恐ろしい体験をして思ったのですが、人間何が恐ろしいかと言ったら、心の中に刻まれた恐怖がいちばん恐ろしいのではないかなぁ、ということです。怖い映画を観ても、その瞬間は怖いと思いますが、明日になれば忘れてしまいます。

たいていの恐怖は表面的なものですが、幼い頃水が怖くなったり高い場所が怖くなったりした経験は一生消えないものです。内面、つまり心の中に刻まれた恐怖は、いつまでたってもぬぐい去ることはできないのではないでしょうか。

九州のとある県は、転んでもただでは起きないのだそうですが、わたしもせっかくあんな怖い思いをしたので、何か説教に生かせないかなぁと思いました。そして、もしかしたらつながるかもなぁと思う部分を見つけました。

今週の福音朗読でイエスは重い皮膚病を患っている人をいやしてくださいます。この病を得ている人はイエスに、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(1・40)と願い出ました。イエスへの信仰を持って、自分を救ってくれるように願ったのだと言えます。

それに対してイエスは、その病人を深く憐れみ、病をいやしてくださいました。わたしはこの時、イエスは重い皮膚病の人に、2つの面でその人の内面に深く入り込み、イエスの存在を刻み込んだのではないかと思ったのです。1つは、病をすっかり取り除くということ、もう1つは、深い憐れみを掛けてくださるということです。

2つのイエスの姿が、重い皮膚病の人の心に刻まれたのですが、いやされた後、この人は意外な反応を取りました。イエスは確かに、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」(1・44)と念を押したはずなのですが、「彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。」(1・45)となっています。

口外しないように、人に言いふらさないように念を押したはずですが、このいやされた人には伝わりませんでした。ということは、イエスがこの人の心に深く刻み込んだはずの2つの側面のうち、どちらかは心の奥底まで届いてなかったのかも知れません。

2つ示しましたが、自分をいやしてくれたのはイエスなのだ、イエスだけが、自分をいやしてくださるのだということは確かに届いたのだと思います。ただ、もう一方のイエスが示した深い憐れみ、この部分はもしかしたらこの人の心の奥底まで届いてなかったのかも知れません。

こんなに深い憐れみを示してくださったのに、だれにも話さないように口止めされた。きっとイエスは何かをお考えに違いない。そのことを理解できるように、イエスの命令を守って、だれにも、何も話さないようにしよう。わたしの心の中で、イエスの深い憐れみを思い巡らそう。こんな気持ちを保ってほしいとイエスは願っていたはずですが、残念ながらその思いはいやされた人の内面に深く刻まれることなく終わったのだと思います。

エスの奇跡が、表面的にしか伝わってなかったかというと、そこまでは言えないだろうと思います。重い皮膚病の人は、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(1・40)と確かに申し述べたのですから。それでも、イエスの深い憐れみと一緒には、刻まれることはなかったようです。

どうしてこんな結果になったのか。わたし自身の昨日の体験から振り返ってみると、もし2メートルちょっとのところからずり落ちたことを、「あーあ、落ちちゃった」と受け止めていたら、恐怖はわたしの中に刻まれなかったと思うのです。つまり、出来事が確かに起こったとしても、それをどう受け止めるか、本人の心の持ち方次第ではがらっと変わってくるのではないでしょうか。

そうすると、いやされた人の心の中はどうだったのか、もう一度考え直してみる必要があります。そう思って登場人物の気持ちになってみると、この人は奇跡を期待する堅い信仰は持っていたと思いますが、奇跡はイエスの深い憐れみの一つの現れなのだと、そこまでの理解にたどり着く信仰は持ち合わせてなかったのかも知れません。

仮に、奇跡の体験を絶対に口外しなかったとしましょう。口外せずに思い巡らしていたなら、イエスがいちばん伝えたかったのは、神の深い憐れみだったのだと気づいたかも知れません。奇跡はその1つだ。神の深い憐れみが、わたしにも、あなたにも、この世界のすべての人に今注がれているのだ。やっと分かった!と、そこでようやく飛び上がって喜ぶことになったに違いありません。

エスの同じ呼びかけが、わたしたちにも向けられていると思います。今日の奇跡物語を通して、わたしたちにもイエスは何かを心に深く刻みつけようとしているのではないでしょうか。それは、奇跡の面でしょうか。わたしたちがこれまで考えてきたことからすると、むしろ神の深いあわれみをこそ、イエスは私たちの内面に刻みつけようとしているのではないでしょうか。

エスは、どんな人にも、深い憐れみを示してくださる。示す方法は奇跡の形であったり力を奮い起こす励ましの言葉だったりいろいろですが、絶望しかけている時に、希望の持てない場面に、イエスは深い憐れみを示すことのできるお方なのだと、今日の出来事を通して教えようとしておられるのです。

もしも、わたしたちの心にイエスの深い憐れみが刻みつけられたなら、わたしたちはある意味でだれにも、何も話す必要はありません。ただイエスの深い憐れみに自分自身が洗い清められたことを、人々に証明すべきだと思います。

何かの方法で、イエスに深く刻まれた憐れみの心を、感謝すべきです。感謝の仕方は、あなたに任せられています。たとえばそれは、だれかを深く憐れむということかもしれません。イエスに刻まれたものをわたしはどのように感謝して生きていくか。この点が今週わたしたちに課せられた軛だと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼叙階式での出来事。叙階を受ける人は、呼び出し係の呼び出しを受けて大司教さまの前に出てくる。呼び出し係は、養成にたずさわる神学院の院長と決まっているのだが、もちろんその院長が叙階を受ける人を育てたとは限らない。だから面識がないかも知れない。
▼それでも、養成にたずさわる院長はこう言う。「この人が助祭(司祭)にふさわしい者であると判断されたことを証言いたします。」それは荘厳な場面である。ある意味、わたしに言わせればいちばん荘厳な場面かも知れない。いちばん大切な部分は別だとしても。
▼その呼び出しの時に事件が起きた。「助祭に叙階される人は前に進み出てください。○○○○さん。」ここで、名前を言い間違えたのだ。助祭に叙階される当人は困った顔をしていたが、「はい」と気持ちよく答えて大司教さまの前に立った。大司教さまは名前を間違わなかったので、助祭叙階の効力には何ら問題はないのだとそのとき思った。
▼どうやら間違って呼び出した院長はあとで大勢の同僚司祭から指摘を受けたようで、かなりしょげていた。けれども人柄なのか、ゆるされ、愛される姿はさすが司祭同士だなぁとしばし感激。わたしも微笑ましい間違いをゆるされてスタートラインに立ったことを思いだした。
▼わたしも、偶然だが司祭叙階式直後の祝賀会でハプニングが起こった。祝賀会会場、宴もたけなわの場面で当時の大司教さまが「皆さん、いちばん知りたがっていることをここで発表します。A神父さまは福江教会の助任司祭として働いてもらいます。B神父さまは三浦町教会の助任司祭として働いてもらいます。中田神父さまは、浦上教会の主任神父さまとして働いてもらいます。」
▼あとで聞いた話、会場がどっと沸いたらしい。わたしは緊張でそんなことが起こっていたとは知らず、浦上教会の主任神父さまにあいさつに行ったら迷惑そうな顔をされた。その理由を知ったのは、あとで祝賀会のビデオテープを親戚から受け取った時である。なるほど、これでは本物の主任神父さまは迷惑に違いない。
▼それでも愛され、受け入れられてスタートラインに着くことができた。長崎教区とはそこまで懐の深い、おおらかな教区なのである。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===