聖パウロの回心(マルコ16:15-18)

今日1月25日は、日曜日と重なってしまいましたが、「聖パウロの回心」を祝う日です。今年は教皇さまが特別に「聖パウロ年」を制定されましたので、日曜日のミサのうち1度だけ、「聖パウロの回心」の典礼でミサをささげることができると指示されています。

私たちの小教区では、大明寺教会が聖パウロにささげられた教会なので、大明寺教会で聖パウロの回心の典礼でミサをささげました。そして説教も、本来のように福音書に沿って説教するのではなく、聖パウロについて説教をしました。私は怠け者なので、馬込教会でも高島教会でも、説教だけは大明寺で説教したものをそのまま繰り返しさせていただきます。

さて、皆さんは聖パウロについてどのようなことを理解しておられるでしょうか。今年は聖パウロ年ですから、聖パウロについてできるだけ学ぶというのはすばらしい心がけです。ただし、皆さん一人ひとりが十分に材料を持っているわけでもありませんし、探せば材料はいくらでもあると言っても、それを探す手段も限られていると思いますので、できる限り、私が聖パウロについて学ぶ機会を提供したいと思っております。少なくとも3つ、聖パウロについて学ぶ機会を提供できると思います。

3つの材料を並べておきましょう。1つめは、今日の説教で聖パウロについて大まかな所を押さえてもらおうと思います。今年、聖パウロ年ですが、「聖パウロってどんな人ですか」と聞かれた時に、だれもがためらわずに「パウロという人は、こんな人でした」と言えるくらいの内容は持って帰ってもらいたいと思っています。

2つめは、土曜日から始まる「聖パウロの手紙を学ぶ会」がパウロについて私たちが知るための良い機会となるでしょう。パウロはイエスの12使徒ではありませんでしたが、ある意味彼ら以上に活動的に、イエス・キリスト地中海世界に告げ知らせたのです。パウロの宣教旅行の様子を、今回の聖書朗読会で十分味わうことができるでしょう。

3つめですが、これはもしかしたらばらさない方がいいのかも知れませんが、今年の黙想会は聖パウロについてじっくり学びたいと思っています。全体で5回くらい説教があるでしょうから、聖パウロについて集中的に話を聞けば、私たちは聖パウロの生き方を深く掘り下げることができるようになると思います。

それでは、今日は日曜日の説教として、聖パウロの回心について耳を傾けることにいたしましょう。パウロは、回心するまではサウロと呼ばれていた若者でした。この若者サウロが登場するのは、イエスへの信仰を受けた人々のお世話のために使徒たちによって選び出された7人のうちの1人、ステファノが殉教する場面です。

ステファノはイエス・キリストについて大胆な説教をし、それを憎んでいた人々がステファノを殺害しようとします。石投げの刑にして迫害するにあたり、人々が着物を若者サウロのもとに預けるのです。使徒言行録にそのあたりの事情が描かれています。

「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言った。それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。サウロは、ステファノの殺害に賛成していた」(使徒言行録7:55-8:1)。

この若者サウロが、ダマスコという町にイエス・キリストを信じる人々を捕らえて牢に入れるために出かけている時に、不思議な体験をしてイエス・キリストを信じるようになります。ステファノの殺害に賛成していた若者ですから、イエス・キリストを信じる者はけしからん人々だと本気で思い込んでいたのです。

それほど強い偏見を持っていた人が、ダマスコの途上でイエス・キリストと出会う体験をし、すっかり人が変わってしまいます。彼の回心の出来事は、使徒言行録第22章に詳しく書かれています。大まか紹介すると、天から強い光がサウロの周りを照らし、彼は地面に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞きます。

「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである」と答えがありました。さらに「主よ、どうしたらよいでしょうか」と尋ねると、「立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる」と返事がありました。この時、サウロはその光の輝きのために目が見えなくなり、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入ります。

ダマスコにはアナニアという人がいました。アナニアにも主が現れて、アナニアに導かれたサウロは目が見えるようになり、アナニアの勧めに従ってイエス・キリストを信じる洗礼を受けたのです。こうしてサウロは、かつてけしからん人々だと思い込んで牢屋に入れることすらためらわなかった人々と同じ仲間になり、大胆にイエス・キリストを知らせる者となったのです。ここまでが、聖パウロの回心と言われる出来事です。

ここには、なかなか簡単には理解できない出来事がいくつも出てきます。第一は、のちにパウロとなる彼が、イエス・キリストと出会ったということです。強い光に照らされ、地面に倒れるほどの経験とは、いったいどのような出来事だったのでしょうか。これは、パウロだけが味わった特殊な体験で、ほかの人には決して理解できないものなのでしょうか。

第二の理解困難な出来事は、光の輝きのために目が見えなくなり、アナニアが「兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい」と言うと、見えるようになったというのですが、この「目が見えなくなったこと」とか「元どおりに見えるようになった」という体験は、イエスが生まれつき目が見えない人をいやした時の奇跡と、同じように考えるべきなのでしょうか。それとも、何か別の説明が可能なのでしょうか。

ほかにも、パウロのダマスコでの出来事には、興味を持って深く分け入ることのできる点があるようです。それらも含め、ぜひ今年の黙想に参加して、聖パウロについての学びを得ることにしましょう。今年6月いっぱいまで設定されている聖パウロ年を大きな実りの期間にするために、ぜひ「聖パウロの手紙を学ぶ会」と、「今年の黙想会」に参加することをお勧めいたします。

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ちょっとひとやすみ
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▼ゆっくり400号のその時を迎えたいと思います。400号のことだけに構っていられないのが現状ですので、1つずつやって来る日々の出来事の中で、確実にやってくるのだという楽しみをじっくり味わいながら、その日を迎えたいと思います。いつもその場しのぎの人間が、こんなに長く1つのことを続けることができた。その事実を、ゆっくり味わいたいのです。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===