王であるキリスト(マタイ25:31-46)

今週で教会の1年の暦(典礼暦)は終わります。福音朗読は1年の終わりである日曜日と、人間の人生の総決算や人類全体の終末について考えさせます。あらゆる振り返りを呼びかけていると言っても良いでしょう。

そこで、私たちはカトリック信者としての振り返りをしてみたいと思います。カトリック信者にふさわしい振り返り方は、「イエス・キリストとの関わりで振り返る」ことです。そのことを頭に置いて、まずは与えられた福音の箇所を考えてみましょう。

「わたしの父に祝福された人たち」(25・33)。今週の朗読の中でこう呼びかけられている人々は、「お前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」(25・34)と言ってもらいました。大変幸せなことですが、この幸せにあずかっている人々は、用意されているものを受け継ぐことになった確かな理由を示してもらったのに(25・35-36)、説明を聞いても理解できていません。

同様に、「呪われた者ども」という厳しい指摘を受けている人々も、なぜこのような恐ろしい状況になったのか、その理由がはっきり示されているにもかかわらず(25・43)、自分たちが置かれている絶望的な状況が飲み込めなかったのです。

両方の人々の受ける報いに永遠の開きが出てしまいました。正しい人たちには永遠の命、呪われた人たちには永遠の罰の宣告です。けれども、どんなに長生きしても100年(マタイ福音が書かれた時代はもっと平均寿命は短かったでしょう)、人間が経験しうるこの人生において、「永遠の開き」というほどの差は本当に生じるものなのでしょうか。

結論から言うと、それだけの差が場合によっては生じるということになります。それは、「イエス・キリストとの関わりに置いてどれくらい中身のある人生を生きたか」で決まってくるのです。イエス・キリストにより近い場所で人生を送った人と、決定的に遠く離れた場所で生きた人では、その開きは「永遠」と言ってもよいくらいの開きが生じるということです。

今週の福音からそのことを学ぶために、一つの物差しを示したいと思います。それは、「どれくらいイエス・キリストにお仕えして生きたか」という「物差し」です。どこにいても、またはどんな状況に置かれていても、あなたがイエス・キリストにお仕えして生きているならより近い場所で生きた人です。反対に、どんなにチャンスに恵まれていても、イエス・キリストに仕える心がけを持たずに生きた人は、イエス・キリストから遠く離れて生きていたことになります。

永遠の命にあずかるとされた「父に祝福された人たち」は、この地上で生きている間、どんな小さなことにもイエス・キリストへの奉仕を読み取り、イエス・キリストに仕えるつもりで奉仕しました。「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」とはそういうことです。

実際には、目の前にいる弱い立場の人々に奉仕をしていたわけですが、その人は心の中でイエス・キリストを隣人の中に見て、いつもイエス・キリストに奉仕していたと言えるでしょう。ただそれが、「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイ6・3)それほどに謙虚であったために、恐れ多い言葉に目を丸くしているのかもしれません。

反対に、厳しい叱責を受けた人々は、ある場面にはイエス・キリストへの奉仕を考えていたのかもしれませんが、多くの場面を見過ごし、イエス・キリストへの奉仕のチャンスをみすみす逃していたのでしょう。「最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」(25・45)。ほとんどの場面を見過ごし、あるいは無視したのでしょうから、この人々はほとんどイエス・キリストに仕えなかったことになります。

イエス・キリストに仕えるなら、私たちたちとイエス・キリストとの関係は「王であるキリスト」と「僕であるわたし」という関係になります。「僕(しもべ)」という呼び方に抵抗があるかも知れませんが、その意味するところは「仕える者」です。王であるキリストに生涯仕えた人の人生は、王のそば近くにあった人生です。私たちは明日、そのようにして人生をまっとうした人々の列福式にあずかるのです。

いよいよ明日は、188殉教者の列福式です。彼らには、「慈悲の組」という組織があり、彼ら自身小さい者の一人であったにもかかわらず、「最も小さい者の一人」への奉仕を欠かさなかったのです。血の一滴までも、王であるキリストにささげて人生をまっとうした彼らが、神に祝福され、神の国を受け継ぐのは当然なことです。

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ちょっとひとやすみ
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▼24日は列福式。当然、列福式関連のネタでこのコーナーをまとめるべき所だが、まず最初に書きたいことは、「わたしの勉強部屋のテレビが壊れた」こと。現在修理に出していて、いつ戻ってくるのか、修理が可能なのかも分からない状態。ということで、列福関連のニュースがどのように報道されているのか、目の前でチェックができない。いちいち寝室に行って確認している。テレビを流しっぱなしにして、列福式報道がなされた時に耳を傾けるということはまずできない状況にある。
▼もちろんメリットもある。すべての出来事にはメリットデメリットがあるもの。今勉強部屋ではいっさいの雑音が入ってこない。電話は鳴るけれども、電話の応対はほとんどが列福式関連で、応対すればするほど問題は解決、少なくとも解決に向けて前進するから歓迎である。ときどきこうして「強制的な静寂」の中に自分を置くのもよい。どんな音を自分が欲しているか、どんな環境に自分を置きたがっているかがよくわかる。
列福式で実行委員会本部に首を突っ込んだすべての人々に、心からご苦労様と申し上げたい。私は広報部に属しているので、広報部で汗を流し、言いたいことをこらえて関係部署と交渉・問題の調整に当たってくれた部員のS氏・F氏には、よくここまで投げ出さずに仕事をこなしてくれた。今回の列福式で表に出る人はねぎらいの言葉を受けるだろうが、広報部は私がねぎらわなければだれも声をかけてはくれないだろう。本当にありがとう。
▼広報部以外にも、それぞれの部署は精鋭揃いだったので、本当によくやってくれている。敬意を表したい。一つひとつの部署を上げてたたえたい所だが、典礼部に感謝したいと思う。私は大神学生時代、典礼の教授から習ったことで一つだけ忘れない教えがある。それは「予定通り行かないのが典礼というものです」。名言だと思う。最後まで頭を抱えて現場を取り仕切り、この式典を成功させてくれたのは、突き詰めると典礼部のメンバーである。本当にご苦労さま。わがまま言い放題の外部の声にも耳を傾け、うまく式典をまとめ上げてくれた手腕に拍手。
▼この列福式はきっと参列した人、日本のカトリック教会、日本社会に何かをもたらすと思う。今後は式典が何をもたらしてくれたかを見極めたいと思う。福者たちを通して神さまが与えてくれるものが、日本の教会を力強く前進させてくれることを信じて、今回の「ちょっとひとやすみ」としたい。当日、くれぐれも風邪を引かないように。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===