年間第28主日(マタイ22:1-14)

言葉はつくづく不思議な道具です。私たちがミサで耳にしている聖書、もともとは旧約聖書ヘブライ語で書かれ、新約聖書ギリシア語で書かれていました。それを、日本の一流の聖書学者が日本語に訳して、私たちは読んだり聞いたりしているわけです。

ある国の言葉を別の国の言葉に置き換える時、そこにわずかなロスが生じます。元の言葉が含んでいる意味を、一滴も漏らさずにほかの国の言葉に置き換えることは、大変難しいのです。

例えば、私たちが十字架のしるしをする時に最後に言っている「アーメン」は、あえて日本語に訳すと「そうなりますように」となりますが、ちょうど当てはまる日本語がないために、日本語にせずそのままアーメンと言っています。「父と子と聖霊の御名によって。そうなりますように」と言っても、しっくりこないのです。

「アーメン」1つを取っても、聖書が書かれた時の言葉をその国の言葉、例えば日本語に直すということは、大変なことであるというのが分かってもらえたと思います。ここまでのことを踏まえて、今日の福音朗読に当たってみましょう。

私たちの使う日本語は、「わたしの」とか「あなたの」、また「彼の」「彼女の」という言葉を省略することができます。例えば、「雨が降りそうなので、傘を持っていくつもりです」と言えば、「あー、自分の傘を持っていくんだな」とちゃんと伝わると思いますが、日本語以外では、「雨が降りそうなので、わたしは『わたしの』傘を持っていくつもりです」と、必ずだれの傘なのかをはっきり示す言葉遣いをするのです。

聖書には、「だれの」という言葉をきちんと日本語に訳して、見事に会話の微妙なやり取りを表現している例があります。典型的な例は、ルカ福音書第15章の「放蕩息子のたとえ」の中に現れます。兄が父に不平を述べ、父が兄を諭す場面です。

兄は父親に食ってかかります。「あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」(ルカ15・30)。そこで父がなだめます。「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(同15・32)。

巧みに使われているのがお分かりでしょうか。「『あなたの』あの息子が(あんなふしだらなことをした)」と兄がなじると、父は兄に、「『お前の』あの弟は死んでいたのに生き返った(中略)。喜ぶのは当たり前ではないか」そう言って、兄弟の絆を思い出させようとします。このように、「わたしの」とか「あなたの」をうまく日本語に訳出できれば、元の言葉の豊かさを現すことができるのです。

ところが、現実には元の言葉に「わたしの」とか「あなたの」という言葉がくっついているのに、日本語に翻訳するさい、それが省略されてしまう場合があります。当然、元の言葉の微妙な意味合いまでは伝わらなくなってしまいます。

今週の福音朗読の中で、「わたしの」とか「あなたの」という言葉が省略されてしまって、ロスが生じている部分があります。それは、王が招待客にもう一度家来を送る時に言わせる部分です。次のように書かれています。「招いておいた人々にこう言いなさい。『食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください』」(22・4)。

今読み上げた箇所を、元の言葉の通りに「わたしの」とか「あなたの」という表現を付け加えるとこうなります。「『わたしの』食事の用意が整いました。『わたしの』牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」。

日本語でこのように訳してしまうとくどい感じがします。その辺の事情があるのかは分かりませんが、日本語の聖書で省略されたこの「わたしの」という言葉は、あらためて考えると大変重要な役割があることに気づきます。

こういうことです。「『わたしの』食事の用意が整いました」。これはつまり、王が王宮で食べている食事の用意が整ったという意味です。一般庶民の食事ではなく、王宮での食事ですから、そこへ招待されることは名誉なこと、出席して当然のはずでした。

さらに続きます。「『わたしの』牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています」と言っている箇所も、一般家庭が所有している牛・家畜ではなく、王宮で使用される牛・家畜を屠って料理を作っていると言っているのです。

「わたしの」という言葉が加わっているだけですが、実はその重みは大変なもので、日本の感覚で当てはめるなら、天皇家御用達の材料でご馳走を準備しておりますのでおいで下さいという意味なのです。

それなのに、招待客は応じようとしませんでした。それだけでなく、王が遣わした家来たちを捕まえて乱暴し、挙げ句の果てに殺してしまったのです(22・6)。あからさまに、「王のことなど知ったことか」という態度を示したのです。

王がどのような態度に出たかはすでに示されている通りです(22・7)。王は望めば、大変厳しい処置に出ることも可能なのです。ただ、自分の意志で、喜んで王の招待に出席してくれることを期待しているのです。一方で、町の大通りで集められた人々は、招かれたことを重く受け止め、婚宴に出席したのでした。

そこで私たちも、王の招きに真剣に答えましょう。王はすべての人に「『わたしの』食事の用意が整いました」と招きます。なぜでしょうか。それは、王が振る舞う食事を通して、私たちが常に王に生かされていることを思い出してもらうためです。父である神が、主であるキリストが、私たちを生かしてくださっていることを思い出させるためなのです。

日曜日のミサは、私たちが一瞬も神さまなしに生きられないことを思い出すためのまたとない食事の場です。神のことばと、神の恵みによって私たちは生きている。神なしには一瞬も生きられない。それを思い出す食事の場が、ミサだと思います。

私は神との関わりなしに生きることができると言う人は、本当の意味で生きるということを放棄した人です。毎日の一分一秒、神から与えられなければ、私に命はないのです。

「『わたしの』食事の用意が整いました」。特にミサという神が用意する最高の食事に出席して、24時間神に生かされていることを思い出すことにいたしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼俳優の緒方拳さんがガンで亡くなった。71歳だった。父親と同じ年齢だったことが、胸を打った。本来なら「へぇ。亡くなったんだ」で終わることが多いのに、71歳という年齢が特別な気持ちにさせたのだと思う。緒方さんの代表作と言われても分からないけれども、偉大な俳優だったことは分かる。それだけに、命を縮める病気を何とも恨みたくなる。
▼今年のノーベル賞が次々に発表されている。その中に日本人が4人もいて、そのすべてが理科系の学者だというので驚いている。物理学賞などは日本人が独占したらしい。これは凄いことに違いない。世界の学問の進歩に、日本人が貢献しているというのだから、これまた身近に感じ、会ったこともないのに日本人であることに誇りを覚えたりする。
▼こうした世界的な学者の貢献で、ガンに代表されるような困難な病気を、命を縮める要因から取り去ってほしいと思う。そうして、人間の命を縮めるものは病気ではないという時代が来てほしいものだ。命を縮められてしまうのは、42歳の今でも恐ろしいと感じる。平均寿命までは、期待していたいものだ。
▼平均寿命まで期待できると仮定して、晩年は何をしたいか。晩年は若い主任司祭のお手伝いを細々としながら、いろんな人と釣りに行きたい。特に、教会にまったく来ない人と、釣りに行ってみたい。まったく来ない釣り好きの人にも、何か言い分があるに違いない。そんなことを聞き出して、若い主任司祭の力になりたい。
▼別に釣り好きの人でなくてもいいから、教会に足が向かない人のところに自由に出入りして、話を聞きたいものだ。今はいろんなことに縛られているから、教会にいちばん遠い人たちとは、やはり私からもいちばん遠い人たちである。ぜひ、晩年はそういう人のもとを訪ねることを生きがいにしたい。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===