年間第20主日(マタイ15:21-28)

私は今日の福音朗読を繰り返し読みながら、イエスとカナンの女のやり取りを、知らないうちに経験済みなのではないかなと思うようになりました。実に身近な所で、よく似ている経験をしているものだと思ったのです。

それは、ついこの前起こった、1人のシスターとのやり取りです。このシスターは自分で解決できないことが起こるとあちこちに連絡を取って解決してもらう要領のいいシスターなのですが、その時もパソコンのトラブルに見舞われて私のところに電話をかけてきていました。

このシスターがパソコンのことで困った場合、まず自分が雇われている教会の1人の信者さんに連絡を取ります。ほとんどの場合はその信者さんの協力で問題は解決するのですが、その人の手が空いてなかったり、まれにその信者さんの手に負えなかったりすると、いよいよ困って私のところに電話をかけて、問題を解決してほしいと相談してくるのです。

私は、人の相談に関して、基本的にはその人が苦労して自分で解決するまで手を出さない人間です。なぜかというと、多くの場合、人が抱えている問題は、その人が全力で取り組めば自分で解決できることが多いとみているからです。

ですから私は、たいていの場合、その人の中にすでにある解決策を引き出したり、その人が問題を解決できる方向を示すだけで、手は出さないのです。本人がもがき苦しんで答えにたどり着くように、そのための手伝いしかしないことにしています。

今回もそうでした。確かに、シスターが電話で話している内容を総合すると、問題は少々手こずりそうだなぁと感じましたが、私が伊王島から出向いて、手を差し伸べて解決するほどの難問ではないと判断したのです。

シスターはこう言いました。「神父さま、長崎に今日来る予定はありませんか〜」「ないね〜」「パソコンのこういう問題にぶつかって、解決できずに困っているんですけど」「わたしが行かなくても解決できそうだから、もうちょっともがき苦しんでみたら」「そんなこと言わないで助けてください」「いやだ」。

私は助けに行かない理由をいつものように並べました。「わたしは今、馬込小教区の信者のために説教を書いているから、そちらの教会のために時間を割くことはできません。それにいつも言っているように、まだもがき苦しむ量が足りないですね」「いやー、それは分かりますけど、わたしたちの教会で使っているパソコンの問題が解決すれば、また話のネタにもなるし、わたしが手伝って上げられる時は助けてもらったお返しができますよ。そうでしょう?」

そうした押し問答を繰り返した挙げ句、そこまで言うならということで必要な知識を提供しました。皆さんは、そんなにいじわるしなくても、そこに行ってちょちょいのちょいと解決してあげればいいのにと思っているかも知れません。そうしてあげてもいいのですが、それはひんぱんに救急車を呼び出すようなもので、いつでも電話をかければ救急車が来てくれると思われては困るわけです。そうたやすく救急車は出動できないし、出動するまでもないことが多いということを分かってもらう必要があるのです。

今話した経験は、今日の福音とちょうど重なり合うと思いました。カナンの女がイエスに自分の問題を解決してほしい、つまり「娘を助けてください」と願います。それに対してイエスは、すぐに手を出すことはなさいません。イエスには、第一にお世話しなければならない人々、「イスラエルの家の羊たち」がいるのです。その人々に十分お世話しないで、第二の任務「異邦人へのお世話」に向かうわけにはいかないときっぱり言うのです。

弟子たちは、「そんなにいじわるしなくても、助けて上げてくださいよ」というような雰囲気なのですが、イエスはカナンの女がもっともがき苦しんで、全力で取り組むことを求めるのです。何度も突き返され、立派な答えが見つかるまで、カナンの女の内面の成長を促しているのです。

カナンの女は、何度も願いを突き返されているうちに、自分が本当に願うべきことが分かってきます。最初は、ただ娘の苦しみが取り除かれればいいと、それだけのためにイエスにすがりついていました。けれども、何度も突き返されているうちに、イエスは「イスラエルの失われた羊に遣わされている」のだから、第一の使命を妨げるわけにはいかないことに気づきます。そして、第一の使命を妨げずにイエスの救いの力にすがるためにはどうすればいいのかを必死に考え出したのです。

どんなにはね返されてもあきらめなければ、答えは見つかるものです。イエスがカナンの女に言った「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」(15・28)というのは、はじめから立派な信仰に育っていたわけではないと思います。何度も突き返されて、はね返されているうちに本当に願うべきことが何か、分かっていったのです。

この女性が最後にイエスに答えた「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(15・27)とは、「イエスさま、これだったらあなたの第一の使命を妨げずに済みますよね。そうですよね」という、もがき苦しんでようやくつかんだ答えだったわけです。

8月の説教の中で、私は「信仰の訓練」ということに触れているのですが、今週はきっと、その訓練の中でも特別厳しい訓練が示されていると感じました。つまり、私たちは大いにもがいて苦しんで、イエスに申し上げる言葉を練り上げる必要があるのだと思います。夢でうなされるとか、答えを見つけようとして1日そのことだけに費やしたとか、そんな格闘をする中で、イエスは私たちを育ててくださり、正しい道に導いてくださるのです。

電話でパソコンのことをすがりついてきたシスターは、最終的にどういう応急処置が可能か、自分で理解しました。もしかしたら私が出向いて手を差し伸べたほうが簡単かも知れません。けれども、簡単な方法を選べば、次も簡単な方法で済ませようとするのです。そのシスターは今回と似たようなことがまたいつか起こった時、今度は自分で解決したり、人に指導してあげることができるようになると思います。

信仰の歩みの中で、何度も突き返されたりして答えが見つからない苦労を経験している人は、それはきっとイエスによって鍛えられているのです。イエスはそうやすやすと答えを教えてくれない方なのかも知れません。答えを教えてくれないのはいじわるだからではなく、鍛え、清めていると考えましょう。

もがき苦しんでようやく答えをつかんだ時、その時私たちはイエスの手足として今まで以上に使い物になる信者になれるのではないでしょうか。

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ちょっとひとやすみ
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▼四男が伊王島に来た。11月に予定を入れに来た。考えてみれば8つ年が離れているとしても34歳である。お年頃ということになる。今年は、家族に大きな変化が始まる年になっているようである。
▼こういう時におもしろいのは、張り切る人が必ず1人や2人はいるということである。自分のことのように張り切るからおもしろい。そんなに張り切るのだったら、全部おたくが引き受けてくれたら?と時には言いたくなる。
▼けれども、そんな人もやはり1人や2人は必要かも知れない。だれかがお節介焼かなければ、進む話も進まないというものである。問題は、お節介までで済めばいいのだが、というところだろうか。いやいや、あまり余計なことは言わないことにしておこう。
▼今年は夏休みで五島に帰る時、教会学校の小学生を同じ日程で実家に連れて行こうと思っている。上五島の生活を通して、上五島カトリック教会をくまなく見学させ、信仰生活を体験させるのが目的である。何かを感じてくれればと心から願う。
上五島には、伊王島の馬込教会のような「島に溶け込んだ教会」がたくさんある。下五島にもあるだろうが、上五島生まれの私は上五島をひいきしたい。頭ヶ島(かしらがしま)教会、大曽(おおそ)教会、冷水(ひやみず)教会、青砂ヶ浦(あおさがうら)教会、かつての江袋(えぶくろ)教会。まだまだ青い海に映える教会がたくさんある。
▼最後になるが、上五島の信者がどんなに自分たちの教会を大切にしているかを伝えたい。それは台風の夜だった。教会の役員が司祭館を訪ねてきて、「何も飛ばされていませんか?教会をのぞいてみましたが、大丈夫のようです」と言いに来た。自分の家の心配以上に、教会の心配をしてくれる。それを当然のことと思っている信者がたくさんいる。それが上五島の教会である。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===