主の昇天(マタイ28:16-20)

主の昇天の祭日を迎えました。先週広報活動ということについてちょっと話しましたが、この教会に集まる全員が、誰に聞いてもこれから続く教会の祭日を言えるようになれば、それだけでも十分広報活動になると思います。今週から続く一連の祭日は、「主の昇天」「聖霊降臨」「三位一体」「キリストの聖体」「イエスのみ心」です。リズムよく口ずさむようにして、ぜひ覚えてください。

また、五月に入っていますので、ロザリオの祈りにも目を向けるようにしましょう。それぞれの家庭で今月中に1回でもいいですから、唱えてみてください。それが無理なら、教会ごとに決まったロザリオの祈りの時間を組んでいると思います。その時間に参加しましょう。近所の人が「えー、どうしたの?最近まじめな信者になっちゃって」と言われるなら、十分に広報活動の効果が上がっていることになります。

さて主の昇天の朗読の中で、要点を押さえておきましょう。2点、考えてみたいと思います。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(28・18)と「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(28・19)の2点です。

まず、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(28・18)を確かめたいと思います。イエスが地上で一切の権能を授かっていることは、中風の人をいやす場面と、ペトロに教会の鍵を授ける場面でよく現れています。

「『人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。』そして、中風の人に、『起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい』と言われた」(マタイ9・6)。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ19・16)

地上での一切の権能についてはこうした箇所を挙げるだけで十分だと思いますが、天上での一切の権能を授かっていることはどのようにして証明されるのでしょうか。私は今週の主の昇天こそが、天上での一切の権能を授かっている証明だと考えます。天に昇ることができるのは、救いのわざをすべて成し遂げて復活したイエスお一人しかできないことです。だれの力も借りず、みずから天に昇り、父の右に座ることができるのですから、天上での一切の権能を授かっていると言えると思います。

次に、イエスは弟子たちに最後の使命を授けます。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(28・19)。弟子たちに授けられたこの使命によって、時代と場所を越えてイエスの弟子が生まれることになります。弟子たちが活動を続けていく力の源は次の言葉です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28・20)。

「世の終わりまで、いつも共にいてくださる」主とは、どのようなお方でしょうか。「天と地の一切の権能を授かっている」お方です。天にも、地にも一切の権能を持っておられるのですから、今ここにいるということと同じです。弟子たちは不安を乗り越えていきます。イエスは天に昇って、地上からいなくなったのではなく、天と地の一切の権能を授かっているイエスが今もいつもこの世にいてくださるからです。

すると、昇天の出来事は、イエスがただ単に天の父のもとにおられるだけでなく、より親密にこの世にも留まり、人々に働きかけていることになるのです。天に昇られたことで、地上でのイエスの働きが弱まるどころか、すべての場所、すべての時代にさらに深く関わってくださるのです。

エスは、天に昇られてから、どのようにこの地上に影響を与え続けるのでしょうか。どのように地上で働き続けるのでしょうか。それは、聖霊を注ぐことによってです。父と子から与えられる聖霊が、弟子たちを通して、また彼らによってイエスを信じる弟子となった人々の中で働き続けます。

けれども、聖霊を注げば、自動的にイエスの権能が世界に及ぶのでしょうか。そうではありません。聖霊を注がれた弟子たちの協力を必要としています。聖霊を注がれた弟子たちが、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」との使命を忠実に果たす時、天と地の一切の権能を授けられているイエスがこの世で働き続けることになるのです。

さらに、弟子たちに託された使命は、イエスが共にいてくださる限り、私たちの使命でもあります。すべての民を、イエスの弟子にする。それは人間の側からは雲を掴むような計画ですが、イエスが共にいてくださることを信じて、一歩でも二歩でも前に進める必要があります。すべての民が、イエスに耳を傾けるように、私にも使命に協力することが期待されています。私たちの協力によって、天と地の一切の権能を授けられているイエスが、今もこの世界に留まっていると証しすることができるのです。

私たちは今週迎えた主の昇天の祭日に、今まで以上に父と子と聖霊の神がこの世界に働きかけるという確信を得て生活に戻りましょう。弟子たちだけではなく、今や私たちの暮らしにも共にいて働いておられる神に、私たちのすべてを委ねましょう。何を行うにしても、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とのみことばに信頼を置いて取り組むことにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼こうじ神父は「方言」に特別な執着がある。方言でなければなかなか表現できない言い回しがあると思っている。郷里の方言で「あよー(あおー)」とか「あよなー(あおなー)」という言い方があるが、これを標準語でどう言い換えるか、適当な言葉が見つからない。私の記憶では、「あよー」は「何とまぁ」で、「あよなー」は「たまらなくイライラする、何とまぁ」ということになる。
▼当然、方言に執着を持つ私は、伊王島の方言をひそかに収集しようと試みている。方言の収集源は、76歳のおばあちゃんである。だがこのおばあちゃんがなかなか方言を口にしない。うっかり口を滑らせないと言った方がよい。そこでしかたなく、方言が出るような会話に持って行くことになる。そうしてようやく、2つの方言(厳密には3つ)を聞き出すことができた。
▼1つは、「なっきー」という言葉。いわゆる足の「すね」のことらしく、語源は「泣くほど痛い場所」らしい。標準的な使い方は「この前なっきーば思いっきり打ってさ。あざになっとっとばい」。これはなかなかお目にかかれない掘り出し物の方言だと思う。方言によっては多少の揺れはあるものの(例:うすらごと→「うそ」の意。「うっすらごと」「うーすらごと」とも言う)、共通しているものも多いからだ。
▼もう1つは、「ちけ」という言葉で、「ちけ持ち」という使い方があり、雨降り前に起こる偏頭痛持ちのことらしい。もしかしたら差別用語ではないだろうかとの心配もあるが、まぁ、ここでは論議しないでおく。実は水曜日の夕方、私が原因不明の強烈な頭痛に悩まされ、2時間何もできなかったことを76歳のおばあちゃんに話したところ、「神父さまはちけ持ちなんですね」と言われた。ここで意味が分かった。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===