聖木曜日(ヨハネ13:1-15)

今日の福音朗読箇所で、イエスの2つの言葉を思い巡らしたいと思います。1つは、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1節)という箇所、もう1つは、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(7節)という箇所です。

前もって考えておきたいのは、ペトロとのイエスの不思議なやりとりです。イエスは、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが」と言っていますが、「わたしのしていること」とは、弟子たちの足を洗ってくださったことだけに留まらないのではないかと思っています。

直前の、イエスが弟子の足を次々と洗っていることもペトロには理解できなかったことでしょうが、もっと全体を見てみると、ペトロがイエスを三度知らないと否定してもそれを責めなかったこと、イエスが十字架にはりつけにされて命をささげ、弟子たちは散り散りになってその場にいなかったこと、復活すると言っていたにもかかわらず、ユダヤ人を恐れて家に閉じこもっていたこと、婦人たちが復活を証言してもすぐには信じることができなかったことなど、イエスのことばとわざについてその時にはまだ理解できてなかったことがたくさんあったのです。

それは、いちばん深い所ではイエスが弟子たちをこの上なく愛し抜かれたということについても、ペトロをはじめとする弟子たちが分かっていなかったということではないでしょうか。「わたしのしていること」つまり、世の終わりまで「イエスが弟子たちをこの上なく愛し抜かれている」その愛が、弟子たちには計り知れなかったのではないでしょうか。

私は、イエスが、今日の最後の晩さんの食事から始まって、十字架への道のり、十字架上での最後、復活の出来事までなさったすべてのことが、弟子たちを愛し抜かれたという答えだったと思うのです。ペトロが三度イエスを知らないと言ったのに、イエスはペトロを愛し抜きました。弟子たちが最後の場面にいなくても、弟子たちを責めませんでした。復活の証言を最初信じることができなかったにもかかわらず、イエス咎めることをせず、愛し抜かれたのです。

ペトロを筆頭に、弟子たちはイエスのしていることが理解できなかったわけですが、それは、イエスがどれほど自分たちを愛し抜かれたのかが理解できていなかったということでもありました。目の前で起こっている出来事、足を洗う出来事さえ理解できていませんでしたが、本当は、もっと大きな出来事についても、今は理解することができなかったのです。ただ、イエスがはっきり言っているように、後で、分かるようになるということも確かなことです。今は理解できなくても、後で理解できるのは、弟子たちのすばらしさだと思います。

そこで、私たちが今日の典礼を通して考えたいのは、イエスが「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」このイエスの深い愛についてです。私たちは弟子たちと違って、イエスがどれほど自分たちを愛し抜かれたのかちゃんと理解できる、そう言い切ることができるでしょうか。

いいえ、私たちもやはり、イエスがこの上なく愛し抜いてくださるということが分からない弱い人間なのです。私たちはどこかで、人を愛するにしてもほかのことにしても、限度を付けてしまうのです。「この上なく愛し抜く」というイエスのなさり方を、すばらしいなさり方とは思ってもすべてを見倣うことはできないと感じています。では、私たちには何ができるのでしょうか。

私たちには、今はイエスの愛し抜く姿を理解できないことを素直に認めること、これくらいしかないのだと思います。後に私たちにも聖霊の恵みが注がれ、もっとよく理解できるようになるでしょう。それまで、私たちの弱さをあわれんでくださいとひたすら願いましょう。私たちにはどうすることもできないことがあると知ることが、今は必要です。私たちにできないので、イエスが私たちのためにすべてを成し遂げてくださいます。十字架の最後の場面まで人類すべてを愛し抜かれる、その愛の深さと広さを、今日からの聖なる三日間、聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日の中で学ぶことにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼聖週間(受難の主日)が始まると、たいていの司祭は説教で大忙しになる。本来は、ふだんよりももっと静かな時間に自分をおいて、黙想を深めるべき日々だが、結果としては説教を木・金・土・日の4連続続けるのでそのことで頭はいっぱいになり、たくさんの時間が奪われることになる。本末転倒のような気がする。
▼準備のことで私は深く考えさせられたことがある。神学科3年生の1年間だったと思うが、助祭に進むかどうかの判断を迫られた時、自分はよく準備ができなかったからためらっていると指導司祭に言ったことがあった。
▼すると指導司祭は私の顔を見ながら、「あなたの気持ちでは準備ができていないかも知れない。けれども、神さまはあなたの考えとは違った方法で準備を進めてくださったのだと思います。あなたは助祭に進む準備ができています」と言ってくれた。そう言われて背中を押され、嘆願書を出した思い出がある。
▼準備は、受ける対象についての準備である。洗礼を受ける準備、堅信を受ける準備、復活祭に向けての準備。さまざまあるだろう。けれども、私たちが準備している対象は、じつは神がその恵みを与えてくださるのであり、突き詰めれば人間の準備に左右されたりはしないとも言える。神が恵みを与えるために、神が準備もしてくださるという考えである。
▼そう思えるようになれば、私たちはできることを精一杯しておけばそれでよいのだと言える。準備が足りなくても、人間が人間に恵みを与えるのではないから心配しなくていい。そう考えると、188殉教者の準備も、あまり力まなくてもよいのかも知れない。福者の恵みを与えるのは神であって、完璧な準備をすることで人間が恵みを創り出すのではないのだから。浮き足だってはいけない。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===