年間第4主日(マタイ5:1-12a)

今週は灰の水曜日からの四旬節に移行する年間の週です。四旬節ということは40日後にはご復活がやってきます。早いものです。ご復活が近くなれば、黙想会のことも気になるでしょう。今年の黙想会は川上神父様にお願いしてみました。私も、この小教区の先輩のお話を聞いてみたいので、楽しみです。

明治村に行ってきました。以前、明治村に行ったことがある人もいると思いますが、私たちが大切に守ってきた大明寺教会が明治村のいちばん奥に、ひっそりと根を下ろしていました。大明寺教会が置かれているのは、1丁目から5丁目まである明治村の中で5丁目、いちばん奥です。

この5丁目にはもう一つのカトリック教会で京都の司教座聖堂だった、聖ザビエル教会も移されていました。私のひいき目かも知れませんが、静かで目立たない大明寺教会のほうが、かえって祈りの雰囲気を保っていて、中に入って落ち着くことができました。

明治村は全体を5時間かけて回りました。その中で大明寺教会で過ごす時間をいちばん長く取りました。もしも大明寺にそのまま置かれていれば、私が主任司祭なのですから、いろんなところに興味がわきまして、雨戸を開け閉めしてみたり、香部屋に行く横の扉を開け閉めしてみたりして、明治村を案内するボランティアガイドに泥棒と勘違いされそうになりました。

皆さんが明治村に行った頃には、京都の路面電車とか、機関車は利用できたでしょうか。路面電車は2駅、機関車は1駅でしたが、乗って楽しむことができました。そのほかにもいくつか興味のあるものにしぼって見学してきましたので、写真ができあがったらまず最初に大明寺教会で写真展を開きたいと思います。1ヶ月前から練っていた計画でしたが、この予定のためにたくさんの人に無理をお願いしてご迷惑をおかけしました。申し訳なく思っております。

そう言えば、明治村に行く2日前に、私は人間ドックにかかって健康診断を受けました。胃カメラはものすごく苦しかったです。費用も36500円かかりました。それだけ払ってはっきりしたことは、胃に慢性的な胃炎が見られるということと、太っているので痩せなさいということでした。36500円も払って、太りすぎという診断ですから、ずいぶん高く付いたなぁと思っています。ついでに言えば、その翌日には父親がフランシスコ病院で診察を受け、その日に入院を告げられました。大変あわただしい1週間でした。

さて今週の福音朗読は、有名な山上の説教の「幸い」についてです。弱い立場に置かれている人を取り上げて、イエスは「幸いである」と約束してくださいました。私はここに述べられている8つの幸い「真福八端」に、今年は新しい発見がありました。イエスは、弱い立場に置かれている人だけでなく、私たちの中でも8つの幸いに生きることが可能だと教えているのではないかと気付かされたのです。

きっかけは、土曜日「主の奉献」の祝日に行われた、純心聖母会の終生誓願式に参加したことでした。5人の初々しいおとめが、終生誓願を神さまとその場にいる全員の前で宣誓しました。誓うのは3つです。清貧・貞潔・従順。私はこの3つの誓願が、今日の福音朗読に大いに関わっていると感じました。1つずつ考えてみることにしましょう。

1つめは清貧です。イエスは今日の幸いの中でこの貧しさについて真っ先に取り上げました。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである」(5・3)。誓願を立てる修道者たちは、天の国のために貧しさを積極的に選びます。昨日参加した純心聖母会であれば、大学教育にも携わっています。中には大学教授をしている修道者もいることでしょう。それでも、約束されている高収入を神さまのために手放している。保育園の先生だって同じことです。積極的に貧しさを選び取って生きている人が、今の時代にもちゃんといるわけです。

2つめは貞潔です。この誓願は「心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る」(5・8)が当てはまっていると思います。心の清さは、しばしば肉体の清さとつながっています。両方の清さを合わせたものが、貞潔だと思うのです。この点でも、修道者は心の清さを積極的に取り入れて生きている人だと思います。

3つめは従順です。次の幸いが当てはまりそうです。「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ」(5・5)。心穏やかな人は、目上の人や責任者の命じることを柔軟に聞き入れます。上長に従うことは、イエスが御父のみ旨に完全に従っておられたことを生きることになります。従順であるためには、怒らず、いら立たず、穏やかであることが必要です。ですから、柔和な修道者は、従順の誓いに生きることができるわけです。

それぞれ、3つの誓願が、山上の説教の「幸い」にうまく当てはまっていることがよく分かります。そしてもっと優れているのは、修道者たちが、3つの誓いのうちどれか1つを選んで守っているというのではなくて、「3つとも同時に選んで生きている」ということなのです。

「1つ選択して生きるだけでも大変なのに、3つも同時に、しかも生涯その状態で生きることを誓うなんて、考えられない」と思うかも知れません。ですが目撃した私が証言しますが、昨日誓いを立てた3人の姉妹達は、決して強いられてしているのではなく、自分たちの生きる道として自分で選んで、誓っていることがよく分かりました。

これは、何を意味しているのでしょうか。私は、今日福音朗読で取り上げられている「幸い」は、たまたまそのような状態に置かれている人にイエスが希望を与えているというだけではない、むしろ積極的にその状態に留まって生きることができるということを教えているのではないでしょうか。

貧しさや、清さや、柔和な姿を強制されているとしたら、人はどんな顔になるでしょうか。きっと、表情は暗く、輝きも失せることでしょう。ところが、昨日誓いを立てた5人のおとめたちは、表情は明るく、輝いていました。あの表情を見て、誰が生き方を強いられていると感じるでしょうか。

あの喜んでいる顔こそ、イエスが教える「幸い」は強いられてするものではなく、自ら選んで、生きていく時、喜びを得ることのできる道なのだと教えてくれます。彼女たちは喜んでいました。喜びは、束縛や強制からは生まれません。自由を感じている人に自然とわいてくるものです。今日イエスによって紹介された姿を生きようと思うなら、私たちは不自由になるのではなく、むしろ自由になり、喜びが満ちあふれるようになるのではないでしょうか。

エスが語る「幸い」を、生涯生きていく人々が私たちの身近にいます。私はこれから、修道者の皆さんを、「真福八端を喜んで生きている人」として、あらためて尊敬の念を持って接していきたいと思いました。

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ちょっとひとやすみ
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▼何から書いたらよいのか分からないくらいたくさんのことが起こった1週間だった。いちおう、明治村のことを整理して書いてみたい。大村空港からJALで小牧(名古屋)空港に降り立ち、空港の玄関から出ている連絡バスで西春駅まで移動(終点なので間違えることはない)、西春駅から名鉄で犬山へ向かった。
犬山駅は、交通の要所らしく、いろんな方面への路線でどれに乗っても犬山を通っていた。それで、迷うことなく犬山にもたどり着いた。犬山で宿を取ったホテルも、歩いて5分なのですぐに見つけることができた。翌日国宝の犬山城を見学し、犬山駅に戻ってバス乗り場に向かった。ここでも「明治村行き」の大きな案内板が出ていたので迷うことはなかった。
▼非常にスムーズな乗り継ぎで明治村に到着し、入念に検討していたコースを基本に、気分の向くままに村内を見て回った。平日だったせいか、京都の路面電車や鉄道の体験乗車は、貸し切りだった。どうせ1人で貸しきりなら、運転席に乗せてもらいたかったなぁ。無理だろうけど。
▼大明寺教会は、いい場所に引っ越したなぁという感じを持った。賑やかな場所に置かれていたら、とても祈りの雰囲気を保つことはできなかっただろう。静かで、しかもひっきりなしにアベックが入ったりしないので、祈りやすかった。それに比べて聖ザビエル教会はアベックが何とも思わずにおしゃべりして中を歩き回り、祈りの雰囲気を保つのは難しいと感じた。観光地に行ったのだから致し方ないが、皆がそれぞれの建物の本来の姿を尊重してくれればいいのにと思った。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===