年間第2主日(ヨハネ1:29-34)

人間の世界では、自分のことを証明するためには、「見える証拠を持っている」か「自分で結果を出す」か、いずれかが必要です。自分は頭がいいと言うのであれば、例えば学校の卒業証明書を持っているか、その場で知恵や知識を話すか、どちらかがなければ信用できません。自分は頭がいいと言うだけでは、証明にはなりません。

自分は力持ちだと言う人は、力自慢大会の表彰状か、目の前で何か重たいものを持ち上げるなどしなければ証明することはできません。中田神父が大きな魚を釣ったと言いたければ、証拠の魚を持ってくるか、食べてしまって見せることができないのであれば、調理をした賄いさんの証言が当然必要です。

まとめると、人間の世界で自分のことを証明するためには、外から証明できる物を持っているか、内側から証明できるか、どちらかがなければならないということです。ここまでの話を今日の福音を味わうための準備としたいと思います。

さてイエスは、今日洗礼者ヨハネによって、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」(1・29)と人々に示されました。「世の罪を取り除くお方」「神の子羊」という紹介は、人間の世の中ですから、証明される必要があります。そして、証明するためには「外から証明できる物を持っているか、内側から証明できるか」どちらかが必要だと言いました。イエスは、そのどちらかを持っておられるのでしょうか。あるいは、それ以上のお方なのでしょうか。

まず、「外から証明できる物を持っておられるか」ということについて考えてみましょう。ヨハネはこう証言しています。「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(1・33-34)。

聖霊によって洗礼を授け、世の罪を取り除く神の子羊であるかどうか、今この場でヨハネはまだ見てもいないし確かめてもいません。けれども、外から証明できる物をヨハネは見たというのです。「“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」(1・33)。ですから、ヨハネの証言によって、イエスが「世の罪を取り除く神の子羊」であることは外からの証明によって確かめられました。

ところで、イエスは内側からご自分のことを証明する何かを持っているのでしょうか。今日の朗読では明らかになっていませんが、私たちはイエスが内側からご自分が何者であるかを証明するものを豊かに持っておられることを知っています。

今週はヨハネ福音書が朗読されていますので、その中から例を挙げると、病気で死にかかっている役人の息子をいやしてあげたり(4章)、ベトザタの池で38年間寝たきりだった病人をいやしてあげたり(5章)、五千人に食べ物を与えたり湖の上を歩いたり(6章)、数え上げればきりがありません。

ヨハネがイエスについて証明した外からの証し、私たちが知識として知っている内側からの証し、これら両方についてイエスがどなたであるか証明してくれるのですが、この事実は何を言っているのでしょうか。つまりそれは、イエスが「世の罪を取り除く神の子羊」であることが外側からも内側からも証明されていて、揺るがないということを意味していると思います。

今日、私が「外から証明できる物を持っているか、内側から証明できるか」考えたのはなぜだと思いますか。イエスのことを証明するために話をしているとお思いでしょうか。イエスについて私が証明するまでもありません。そうではなく、ヨハネの態度に、ここまで考えてきたことが活かされていると思ったからです。

ヨハネが、自分自身預言者だと自覚しているのであれば、外からの証明であるか内側からの証明か、いずれかで証明しなければなりません。ヨハネは、自分が預言者であることを証明するために、イエスに“霊”が降ったこと、イエスが「世の罪を取り除く神の子羊」であることを人々に知らせました。ヨハネは、イエスの証をすることで、人によらず、自分自身の内側から、預言者であることを証明したのです。

ヨハネの態度に触れたのは、ほかでもありませんが、今週の私たちの糧を得るためです。私たちも、自分がキリスト信者であることを何らかの形で証明しなければならないのです。キリスト信者であることを証明するいちばんの近道は、イエス・キリストを証しすることです。それは難しいことばかりではありません。身近なところにも、内側から自分自身を証明する物がきっとあります。

例えば、私たちが欠かさず続けているはずのものが、証をしてくれます。日曜日にミサに来ること、食事の後先に祈りを唱えること、朝夕の祈りなど、どこに行ってもいつも同じように心がけるなら、どこにいても誰に対しても、証になります。

また、隣人を自分のように愛する人も、内側から自分自身を証明するものです。その人は、イエスが命じた愛の掟を生きているのですから、その人の中のイエス・キリストを証しするのです。ある人は結婚し、家族を洗礼に導いて、キリスト信者であることを証しします。

ある人は欲望や名誉にそそのかされることなく、正しいことを選び取ることで証しします。私たちは、今の時代にあって洗礼者ヨハネと同じようにイエス・キリストを証しすることで、洗礼者ヨハネのような働きをすることができるのです。

洗礼者ヨハネは、朗読された福音の結びの部分で次のように言っています。「だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(1・34)。私たちも、自分自身がキリスト信者であることを証しするために、「この方こそ神の子であると証しします」という生き方を目指しましょう。いろんな場面に、私たちの証のチャンスが広がっていると思います

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ちょっとひとやすみ
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伊王島には2つの教会が建てられている。1つは小教区の本教会である馬込教会、もう1つは大明寺教会である。歴史は大明寺教会のほうが古く、明治13年に建てられ、長崎港内の各地へ宣教に出かける拠点となっていたそうである。この建物は外は民家のような造りだが、中は見事なコウモリ屋根の教会だという。
▼さて2つの教会はその後どうなったか。大明寺教会が建てられている島「伊王島」と馬込教会が建っている「沖ノ島」とでは季節で風の影響が正反対になる。夏は沖ノ島が被害を受け、冬は伊王島のほうが被害を受ける。昭和2年と5年に大きな台風が襲ったが、馬込教会は甚大な被害を受け、大明寺教会は被害を免れた。
▼馬込教会は直後に教会を建て直すことになる。大明寺教会はその後も明治時代の教会を維持し続けたが、老朽化も進み、維持が困難となり、昭和48年に建て直すことになった。その際、旧聖堂は解体され、愛知県犬山市明治村に移築されることとなった。平成7年に明治村5丁目で復原再建され、現在に至っている。
▼さてなぜここまで大明寺教会の話を引っ張ったか。小教区の主任司祭でありながら、旧大明寺教会を見たことがないというのでは情けないと思い、思い切って見学することにしたのである。誰にも言わず、といきたかったが、内緒にしておけない性格なのでここに書き込みして出発しようと思っている。年内の予定をしているが、見学が終われば報告を入れたい。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===