四旬節第2主日(ルカ9:28b-36)

今週の朗読から一点に絞って考えてみましょう。雲の中から聞こえた声です。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(9・35)。イエスに聞くこと、イエスにのみ、答えを求めること。これが、今日紹介したいメッセージです。

エスと山に登ったペトロ、ヨハネヤコブは、直接目で見たこと、その場に居合わせて耳で聞いたことがありますから、尋ねたいことがあればイエスに直接聞くことができました。私たちは時代も場所も離れているので、イエスの声を聞くためには違った方法が必要になってきます。それは、出会う人の中におられるイエスの声を聞くということです。私は、出会う人の中におられるイエスの声を聞くことができるでしょうか。

今の時代にあってイエスの声を聞くには、二つのことが必要です。まず、聞くために、心の中に静けさが必要です。日常のなかで静けさを作り出すことは、今では努力なしではできないことです。だれも観ていないのに、テレビが付けっぱなしになっている家庭も多いことでしょう。そんな中で、寝る前の少しの時間を祈りというかたちで静かに過ごす。これは静けさを作り出すために特に勧められることです。

もう一つの心がけは、「これはイエスが声をかけてくれたのではないだろうか」と考えてみることです。ひとつの例を紹介しておきます。先輩の神父様の体験です。今からもう25年も前に実際に体験したことです。この神父様は、ある日バスに乗ろうとバス停に向かいました。停留所のベンチに、当時の突っ張りだった学生がふんぞり返って座っていました。ズボンは、鳶職の人が履くようなダボダボしたズボン、髪は、当時はやっていたのでしょう、金髪の部分染めをしていました。

この神父様は、部分染めというおしゃれの仕方があることを知らなかったのだそうですが、親切心で、その突っ張り学生に言ったのだそうです。「よお、髪の毛にペンキの付いとるぞ。落としたほうがよかっじゃなかか」。

あとで、この学生と神父様は思いがけない出会いをします。何とこの学生、神父様が司牧しておられる教会の信者だったのです。その子が、日曜日のミサにあずかっているではありませんか。髪はきれいにまっ黒に戻していました。神父様はミサの帰りにこの学生に近寄り、声をかけました。「あの時バス停で会ったのは、あんたやったとね」。

すると学生は、こう答えました。「自分は、あんなダボダボのズボンを履いて、髪を染めて突っ張ることが、格好いいと思っていました。でも神父さんから『ペンキの付いとるぞ』と言われたときに、自分では格好いいと思っていたことが、人から見れば格好良くないのかなあと思って、元に戻したとです。でも、まさかバス停におったおじさんが、神父様とは知りませんでした。あ、おじさんと言ってすみません」。何とも微笑ましい話だと思いませんか。

この話を聞いて、私はこんなことを考えました。この学生は、心の奥底ではイエスの声を聞いたのではないか。この学生の主任神父様が何も知らずに「頭にペンキが付いているよ」と言ったとき、学生はその言葉を表面的に取らず、自分のことを真剣に思ってくれる人がいるんだなと考えたのではないでしょうか。

両親も、この学生のことを真剣に考えていたと思います。けれども、反抗期の子に遠慮して、声をかけられなかったのかも知れません。ところが、反抗期の自分に一歩も引かずに、心の中に届く声をかけてくれる人がいた。それは実際には主任神父様だったのですが、声をかけてもらったのは、反抗期であっても一歩も引かずに心に入ってきてくれるイエスだったのではないかと考えたのだと思います。教会に来て、自分に立ち戻るきっかけをくれたイエスにお礼を言いに来た。来てみたら、そこにバス停で会ったおじさんがミサをしていたわけです。

この学生に、両親さえも遠慮して声をかけてくれなかったのかも知れません。それでも、イエスは私たちの生活の中に入ってきて、誰かを通して声を聞かせてくれます。もちろんそのためには、声を聞き逃さないために心の静けさが必要です。私たちの心に静けさがあって、これはもしかしたらイエスの声だったのではないだろうかという振り返りがあれば、イエスに聞き従い、イエスの導きで生活を調えていくことができると思います。それは、司祭、信徒、修道者の区別なく、すべて洗礼を受けた人に同じように求められていることなのです。

「彼に聞け」。聞くことが、話すことよりも何倍も大切なことです。私にイエスが話しかけてくれる。そんな瞬間が、イエスと私たちの間にはあるのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼「うっそー!」ということが3つ。人は当てにならないと他人のことだけ考えていたが、今回は自分が当てにならなくなってきたのだと思い知らされた。「こじか」という子ども向けの読み物に毎月4本原稿を送っているが、締め切りを過ぎてようやく完成したと思ったら編集部から「神父様、今月依頼しているのは5月分の原稿でした。届いたのは、6月号掲載の原稿です・・・」。えー!そんなー。
▼目の不自由な方に声の情報をお届けする「マリア文庫」。毎月15分の宗教コーナーを用意している。その文章の中で2月9,10,11日のの3連休に触れて「土日は忙しいので、せめて月曜日くらいは休もうと」という部分があって、録音したものを聞いてみたら「せめて日曜日くらいは休もうと」と吹き込んでいた。あり得ないと思った。
▼あり得ないと思ったのに、同じ次の録音でもう一度しくじった。電車である高校生とバッタリ会ったのだが、「まさか電車でこうなるとは」という部分を「まさか電話でこうなるとは」と録音していた。ガックリ力が抜けた。
▼ガックリ力が抜けたのを、スイッチを入れ直してやり直すというのはものすごく力が要る。何せ「やったー。書き上げたー」と思った直後から書き直さなければならないのだから、とんでもなくエネルギーが必要になる。うーむ、来月分をうっかり書いてしまったのだから、来月安心だと思えばやり直しもできる。そう心に言い聞かせて、もう一度パソコンモニターとにらめっこだ。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===