年間第6主日(ルカ6:17,20-26)

今年の司祭叙階式の日を迎えました。同じ兄弟が誕生する日ですので、司祭にとっては一年でも特別な一日と言えます。長い準備を経てこの日を迎えるわけですが、今年司祭になる人にも、山あり谷あり、一言ではとても言えないような道のりがあったことでしょう。

毎年叙階式の日が来ると、私自身も司祭に叙階された日のことを思い出します。私は15年前の3月17日、長崎の信徒発見の日に叙階されました。叙階式は順調に進んだのです。私はそのあとに浦上教会で行われた祝賀会で、どうしてもあいさつに取り入れたいことがありました。それは叙階式当日に見た夢のことです。相当に目覚めの悪い夢を見まして、何かよいものに結び付けて朝の出来事を乗り越えようと思いました。

当時は3人が新司祭に叙階され、私は前日から緊張して、朝の4時まで眠れなかったのです。叙階式の日の朝に見た夢は、叙階式後の祝賀会の様子でした。その年は、叙階式が済むと浦上教会の信徒会館で、新司祭の祝賀会をしてもらうことになっていました。祝賀会ですから、司祭に叙階された人たちは舞台の上に上がっているわけです。

共に叙階の恵みを受けた2人が舞台の上に上がっていました。大司教さまからおめでとうと言われて、握手を受けています。ところが舞台にほかの2人は見えるのですが、私はその舞台に立っていません。おかしいなあと思って自分がどんな格好をしているか確かめたら、パジャマを着て祝賀会に顔を出していたのです。夢の中では寝坊して叙階式に参加できなかったことになっていました。驚いて目を覚ましたのが朝の5時半でしたが、なんとも目覚めのよくない朝でした。

どうしても、この夢は祝賀会のあいさつに取り込んで、嫌な思いを振り切りたいと思ったのです。「新司祭の挨拶をお願いします」と言われて自分の順番が回ってきました。見渡すとすべて先輩司祭が舞台に注目していました。頭が真っ白になって、いろいろ考えていたことが出てきませんでした。それでも、どうしてもあの夢はこの場所で吹っ切りたいと思っていたので、朝から見た例の夢のことを話して、夢の時のように出遅れないよう頑張りますと言うのが精いっぱいでした。

どうしても言いたいこと、これだけは伝えたいと思うことは、はっきり伝えなければなりません。たとえ、前後のつなぎにと考えていたことを忘れてしまっても、本当に言いたいことだけは言わないとあとで後悔します。私は今日、これだけは言いたかったのだ。そういう思いで語りかければ、思いは伝わるのではないでしょうか。

福音に入りましょう。イエスは今日、おびただしい群衆を前にして話し始めます。イエスは、どうでもいい話を決してしません。「これだけは伝えたい」。イエスにははっきりした思いがあったのです。それはつまり「イエスを必要としている人は、幸いです。必要としない人は不幸です」というメッセージでした。

「貧しい人々は、幸いである」(6・20)。「今飢えている人々は、幸いである」「今泣いている人々は、幸いである」(6・21)。「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」(6・22)。今取り上げられた人々は、イエスに望みをかけてやってきた人々です。おそらく、イエスのもとに集うまで誰からも慰めを受けていない人に違いありません。だからこそ彼らは、イエスによって必要を満たしてもらおうと集まったのです。イエスのもとに来るまで、誰も自分たちを満たしてくれる人がいなかったからです。

彼らと正反対の人々もイエスのもとに集まっています。富んでいる人々、満腹している人々、笑っている人々、さまざまな形で満足を感じている人々。この人たちはイエスのもとに来た時点ですでに満足している人々です。イエスのもとに来て、さらに何かを手に入れたいものだと思っていたかも知れませんが、イエスの導きがなくても実際の生活にはそれほど影響はないだろうと思っている人々です。彼らにはイエスへの「飢え渇き」がありませんから、イエスのもとに集まっても何も変わらないのです。

エスはメッセージをはっきりと届けます。「あなたは、わたしを必要としていますか、必要としていないのですか」。「気が向いたら、教会に行こう」とか、「葬式の時だけ、教会に行こう」という人は、生活の中でイエスを必要と感じていないことにならないでしょうか。六日間働いてやっと休みが来ても、教会に行かなければ、何か足りない。そう思っている人は、イエスを必要としている人です。

実際には教会に来ることができないときもあるでしょう。来ることができなかったことをとがめる人は誰もいません。どうも都合が悪くて行けなかったなあ。そう思っている人は大丈夫です。その人はイエスを必要としているからです。もしできるなら、今日顔が見えなかったなぁと思う人に、あなたが「今日の説教は『イエスを必要としている人は幸いです。必要としない人は不幸です』という内容だったよ」と話してあげましょう。そうすることで、今週来ることのできなかった人も次につながっていきます。

今日の説教で、私がどうしても伝えたかったことは、「イエスを必要としている人は幸いです。必要としない人は不幸です」ということでした。どうしても伝えたいことは、ほかのつなぎの言葉を忘れたとしても伝えなければなりません。みなさんも、中田神父がどうしても伝えたかったことはくみ取って欲しいと思います。

「わたしはイエスを必要としています」「わたしはあまり必要を感じません」。イエスのもとに集まった人と同じように、私たちもまた、出した答えによって、イエスから見た幸不幸が決まってきます。

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ちょっとひとやすみ
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▼2月9日金曜日、昼にご飯に卵を落とし、醤油をかけたものと、インスタントラーメンを食べた。1時間後、突然吐き気を催し、頭痛にも悩まされ始めた。何だろうと思いつつも、病院は行きたくないので布団をかぶっていたがどうにも吐き気と頭痛は回復せず、まずはトイレで食べたものを少しでもはき出そうと努力した。
▼少しだけ、胃の中のものが出てきた。しばらくトイレでうずくまって、もう少し吐き出したら吐き気のほうは少し引いたが、頭痛はいっこうに引く様子がない。あきらめて布団をかぶっていたが、途中何度か電話に呼び出され、宅急便を受け取ったりと、うめきながら半日過ごした。
▼土曜日、午前中少しだけ頭の痛みがあったが、昨日の吐き気は全くなく、朝から普通に食べ物も入った。頭痛も午後には引いて、今は何事もなかったかのようにしている。健康への危険信号だったのか、風邪だったのか、食あたりか、鳥インフルエンザか。いったい昨日の半日は何だったのだろう。
▼半日失ったからといって仕事が減るわけではない。減らないだけでなく積み上がっている。どうしてこんなに要領が悪いのか。いつも机に書類を積まない同級生がいたが、あのきれいな机から推測するにおそらく頭の中も同じようになっているのだろう。うらやましい限りだ。今日もこうじ神父は、いつ雪崩が起きてもおかしくない机の上で、壁掛けの時計をにらみながら過ごしている。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===