年間第4主日(ルカ4:21-30)

今日の福音朗読箇所は、きれいに先週の続きになっております。先週の話の展開をもう一度思い出すと、今週の朗読も読みやすいと思います。

先週の呼びかけは、イエスを信仰生活の中心にしっかり据えましょうということでした。私たちが中心に導かれて、すべての中心にイエスがおられることに気付いたなら、今度は私たちから外に働きかけて、社会を、あるいは世界を変えていけるんだという話でした。

このメッセージの延長線上に今日の出来事はあるのですが、イエスは、あくまでもご自分はすべての人にとっての中心であって、誰かと特別に親しくなったり、ひいきしたりはしないという態度を保っておられます。ですが、話を聞いている会衆は、そうではなかったようです。昔も今もあったのでしょう、「縁故主義」を無意識のうちに持ち込んでしまい、イエスとの関係をゆがめてしまいました。

話を簡単にすると、こういうことです。「よその土地であっと驚くことをしたのだから、郷里のここでは、同郷の私たちには、もっと特別なサービスをしてくれて当然だ」ナザレの会堂に集まる会衆は、イエスは自分たちの味方、いやそれ以上に、郷里の私たちにひいきするくらいで、ちょうどいい関係なんだと、思い込んだのです。

その思い込みは、たとえばこういうことかも知れません。郷里から選ばれた国会議員さんが、郷里のために橋を架けてくれたり、広い道路を通してくれたりするのは当たり前で、私たちが当選させてやったのだから、それくらいひいきしてくれて初めて、自分たちが選んだ国会議員さんとして認められる、そういう感じでしょうか。

政治や経済の関わりで例を挙げると、ちょうど当てはまるというのですから、ナザレに集まった人たちが期待していたことが、いかに世間的で、打算的だったかが分かると思います。「この人はヨセフの子ではないか」という言い方は、「どこかの殿様の家に生まれたとでも思っているのか?私たちの地元で生まれたくせに、私たちにサービスしないとは何事だ」と、イエスが出来事の中心にいてくださることではなくて、会衆にとって都合の良い場所に、イエスを引きずり込もうとしているわけです。

エスはそういう魂胆がはっきりと見て取れたので、みずからその輪の中から出ていこうとされます。ナザレの会衆の期待する中心に留まることは、イエスにとってすべての人の中心に留まって、すべての人に影響を与え、すべての人の心を変えていくことには決してならない。そう考えたのです。

「わたしはあなたたちのご機嫌取りはしない。正面から、神様を生活の中心に据えて暮らしたいと願っている人々のもとに、わたしは出かけます」そう宣言するイエスの姿は、縁故主義、血縁、地縁のもとでしか考えることのできない人々を激怒させ、イエスを崖から突き落とそうとする、とんでもない行動にまで及ぶことになります。自分たちの都合に合わないイエスというこの人は、もはや救い主でも郷里のヒーローでもなく、目の前から消し去ってやりたい「敵」に変わってしまったのです。

私たちはどうでしょうか?幸いにと言いましょうか、イエスと血縁関係がありませんし、先祖を辿ってもそういう縁故は絶対に見つかりません。ではその幸いな私たちは、イエスが「白」と仰ることを、そのまま「白」と賛成してきたでしょうか。

聖書の別の出来事を例に考えてみましょう。マルコ福音書に、「嵐を静める」という箇所があります(マルコ4:35-41)。私は次のようなことを考えたのです。イエスはもしかしたら嵐に遭遇することもご存知だったかも知れない。それならどうして、早めに手を打たなかったのか?何も溺れそうになるまで待たなくても良さそうなものなのに、ということです。

最終的に、イエスはギリギリまで手を差し延べませんでしたが、私たちが「どうしてもっと早く手を差し延べてくださらないのか」と考えてしまうのは、これこそ、イエスが「白」と考えておられることに意見して、「そういうやり方は黒」と言っていることにならないでしょうか。

きっと、イエスのなさり方のほうに大切な意味があるに違いない。こういう気持ちにいつも向かっていけばよいのですが、イエスが出来事の中心にいて、中心となる大切な意味はここにあるんだよと仰っているのを、どうも私たちは認めたがらないのです。

どうして私だけ苦しいのか、どうして私は慰めてもらえないのか、どうして教会はミサに来い、祈りをしろ、告解をしろ、教会維持費を払えとうるさいのか。そういう思いはすべて、イエスが中心にいて、イエスが大切な意味を教えてくださるということを認めたくない気持ちの表れではないかと思うのです。

今目の前で起こっていることにイエスが示そうとする意味を探そうとしないのは、イエスを中心に置きたくないからです。歴史の中で培われてきた教会運営のやり方、信仰育成の手段に頭から反発するのは、やはり、イエスはこのやり方で私たちに何を願っておられるのだろうか、そんな気持ちを持てないことからすべては始まるのではないでしょうか。

私たちにはイエスに対する地縁、血縁を期待できない国と時代に生まれました。イエスを都合の良い場所に置くのではなく、私の信仰生活の中心にイエスをしっかりお迎えするよう、じゅうぶんに心を開きたいものです。知らず知らずのうちに、イエスを山の崖から突き落とそうとする者の一人になることのないよう、常に心を開いておきましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼教区広報誌「よきおとずれ」の割り付けの日。この日はノートパソコンと紙の資料を入れたカバンを抱えて編集室に出勤する。出社の途中で税金の納付のため、教区会計事務所を訪ねた。言われた額を支払っているときに、机の上に置いたカバン、ノートパソコンが入ったカバンが「縦置き」の状態から転がり、床に落ちてしまった。
▼虫の知らせがあったのかも知れない。この日はノートパソコンをカバンに入れるとき、底にプチプチの緩衝材を詰めていた。それが命綱となって、パソコンにスイッチを入れたとき、何事もなく起動した。落ちたときは正直青ざめたものだ。
▼やれやれと割り付けを終えて島に帰る。帰りにカバンを何度か持ち替えたのだが、なぜか気付いたときにはほぼ間違いなく右手で持っていた。自分は左利きなので、左の方が腕力もある。それなのに、どんなに持ち替えて歩いていても、気が付いたときには右に持ち替えていた。カバンを持っていると意識したときはすべて右で抱えていたときだった。
▼右で持ってばかりいるとどうしても腕が疲れるので、左に持ち替える。すると左はもっと早く疲れてしまい、結局右に持ち替えるのである。変な癖だなぁ、と思いつつも、大いに興味を持つ事象だった。想像だが、無意識のうちに左を守ろうとしていたのかも知れない。左腕は繊細なことにも使われる腕なので、十分に考えられることだと思った。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===