主の降誕(早朝)(ルカ2:15-20)

皆さんあらためて、クリスマスおめでとうございます。朗読は「聖書と典礼」に印刷されたものではなく、あえて「早朝」にあわせて用意されたものを使いました。朗読の中で、羊飼いが目立っています。「さあ、ベツレヘムへ行こう」と語り合う羊飼いたちは、救い主を「確かめたい」その一心で幼子を訪ね回ります。

羊飼いたちは天使たちが離れ去ってから、時を置かずにイエスを拝みに来たと思われます。救い主が生まれてから何日後に到着したか、それは定かではありませんが、考えるに幼子イエスと両親とがいつまでも馬小屋に留まったとは考えにくいので、あまり日をおかずに羊飼いたちは拝みに来たのではないでしょうか。

実は私たちも、昨晩の礼拝に続いてこうして幼子の前に集まっています。これは意味深いと思います。羊飼いたちは日をおかずに礼拝に来て喜びに満たされました。私たちも、日をおかずにこうして礼拝に集まっているのですから、羊飼いたちが受けたに違いない深い喜び・神が羊飼いに過ぎない私たちにも救いを知らせてくださるのだという確かな希望は、今日ここにいる私たちにも注がれているのだと思います。

次に、羊飼いたちと私たちのことを重ねてみましょう。幼子を確かめた羊飼いたちは、自分たちが見たことを人々に知らせに行きます。だれかにその喜びを聞いてもらいたくて、誰かと喜びを分け合いたくて、羊飼いたちはお生まれになった救い主を知らせにいくことを優先させたのでした。

救い主を人々に知らせることが、私たちにとっての優先事項であるなら、何とすばらしい生き方でしょう。具体的にそれは、何かを始めるときにまずお祈りをして始めるとか、布団をかぶってさあ眠るぞというその前に、とにかく何かの祈りをして目を閉じるとか、そういった小さなことの積み重ねだと思います。

エスの母マリアの取った態度も見逃すことはできません。マリアは、イエスの誕生と、羊飼いが拝みに来たことを心に留めて、深く思い巡らします。お産をした場所のそばには、きっと宿屋があったはずです。けれども宿屋の誰も、この物語に登場しません。不思議です。

それでもある人々は、イエスを拝みに来ました。神の救いを必要と感じている人は、探し求め、導かれて救い主のいる場所にたどり着くのだと思います。羊飼いたちの礼拝、のちにおいでになる占星術の学者たちの訪問を見て、マリアはこの子がすべての人にとって必要な方なのだと、確信したことでしょう。どんな身分の人にも、どんな困難に置かれている人にも、救い主との出会いは必要なのです。

最後に、羊飼いは「神をあがめ、賛美しながら」帰って行きます。「賛美しながら」とは、賛美し続けて帰ったということです。神をあがめ、賛美し続けた。この羊飼いの態度は、私たちを日々の祈りに向かわせるのではないでしょうか。私の暮らしは、賛美しながらの暮らしでしょうか。あらためて考えてみたいものです。

今日ここに集まっている私たちは、救い主の誕生が私の生活に必要ですと態度で表しておられる方々です。イエスも、ご自分のもとに集まったお一人おひとりの生活に、人生全体に、これから関わってくださいます。幼子を心にお迎えする。幼子の眠るゆりかごが心の中にあるかのように、新たな一日を始めることにしましょう。あたかもイエスのそばに留まるマリアとヨセフのように、イエスと共なる生活を目指すよう、ミサの中で祈っていきましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼クリスマスの実感。いつもこの日になるとそんなことを思います。どの時間に、あるいはどんな状況で、クリスマスが来たなと喜ぶことができるのでしょうか。今年も答えが見えずにこの日を終えようとしていました。
▼もちろんこの文章を書いているのは午後5時だったので、まだ一日が終わっているわけではないけれども、書いている時点で、「終わったなあ」とは思っていました。けれども一つだけ、「クリスマスが来たかな」と感じた瞬間がありました。
▼懐かしい、浦上教会時代の主任神父様、初めてお仕えした主任神父様から電話がかかってきたのです。そう言えば、「誰かクリスマス頃に海の幸を送ってあげたい人はいませんか」と信徒に言われて、「一人いるよ。○○神父様。送ってくれる?」と言ったらすぐに準備してくれたようです。
▼「クリスマスのご馳走の来たばい」。懐かしい声でした。少し、声が細くなっているような気もしましたが、かつての主任神父様の声に間違いありません。そしてその会話は、短くても共に寝起きをし働いた者にしか分からない喜びがあるのです。誰にも理解できないかも知れませんが、この一瞬はクリスマスの喜びを分け合えたのかも知れません。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===