主の変容(マルコ9:2-10)

皆さんようやくこの日がやってまいりました。タオルを振って、一生懸命応援してください。選手のみんなも、一生懸命練習しましたので、きっとよいところを見せてくれると思います。今年のドラたたきは経験もだんだんと積み上がって、魂のこもったドラたたきを披露してくれると思います。

ずいぶん鍛えられました。一生懸命声を出したせいで、声もドラみたいになりました。本人から話を聞いてきましたので、間違いないと思います。今日ばかりは高校生たちもミサに来て明日の試合のために祈ってくれていると思いますので、力を十分に発揮できるように一緒に祈ってあげてください。

さて、噂は手紙よりも電話よりも早いものです。おそらく中田神父が土曜日の昼間に釣りに行ったことは説明する必要もないくらい誰もが知っているかも知れません。もしかしたら、マダイとアマダイとイトヨリとエソと釣ってきたことも、すでにご存じかも知れません。さすがに大きさだけは聞いていないでしょうから、ちょっとミサの始まる前に、写真を後ろに貼り付けておきました。

今回は一人で出かけた釣りではありません。お客様の接待で行ってまいりました。純心のシスターを差し置いて申し訳ないことですが、よそのシスター一人と、一組の夫婦、合計三名のお客様を連れての釣りです。

お客様のための釣りですから、私がバンバン釣り上げれば接待になりません。そのへんをわきまえて、中学2年生くらいのアマダイ一匹と、小学生くらいのイトヨリを一匹釣って、あとはお客さんに喜んでもらえるように案内しました。

結果的には、十分満足できる接待でした。ただ、結果というものはあとで付いてくるもので、結果だけを受け取りに行くということはどんな事柄においてもできない相談です。今回の接待の結果は、一つの失敗と一つの貴重な情報によって与えられたものだと思っています。

一つの失敗とは、ちょっと前に別のグループでボートに乗って出かけたときに、三人がかりでたったの一匹しか釣り上げられなかったという苦い経験でした。船頭自身が釣ったことのある場所を何ヶ所か案内したのですが、どの場所も芳しくありませんでした。船頭としての面目も丸つぶれでした。

帰ってきたその日、夕方は浜でバーベキューに顔を出したのですが、その場で昼に釣れなかったことを知っていたある人が、この時期はもっとへたで釣りをしないと釣れないのだと貴重な情報を入れてくれました。私が考えていた場所よりも思い切って海岸よりの場所が狙い目なのだと、見かねて教えてくれたのだと思います。苦い経験と貴重な情報から考えて、土曜日は思い切った場所を狙ってみました。そのおかげで、予想以上の結果を手に入れることができたわけです。

結果だけが一人歩きしているわけではありません。明日のペーロン大会も、目標は一つ、大きな結果を手に入れることですが、それまでに苦い経験もしなければならないし、何か貴重なヒントも手に入れる必要があるでしょう。目標としている結果は、それまでの苦い経験も貴重な情報も全部通ったその先にあるものなのです。結果にたどり着くまでに通らなければならない苦しみや周りからの応援、貴重な教え、これらを避けて通ったり煙たがったりしたら、結果は得られないわけです。

今日主の変容の祝日を迎えています。山の上でイエスの姿が変わり、イエスにこれ以上ないほどのすばらしい栄光が与えられた瞬間を選ばれた弟子たちが目にします。弟子たちは、栄光に輝く姿、つまりイエスにとっての「結果」を、仮小屋にとどめて人々に見せようと考えました。

けれども私たちがここまで考えてきたことは、結果だけが一人歩きしているものではないということでした。結果というのは、それまでたどるべき道のり、苦難や無理解や、御父からの照らしなど、それらをすべて通ってきた人々にとって価値のあるものなのです。結果がすばらしいからといって、その結果だけをこれまでの道のりを通っていない人々が正しく理解することは困難なのです。

エスは輝く姿になりましたが、ある意味結果であるこの姿にたどり着くための受難と死、この正反対にも思える苦難を通って得られた栄光であるからこそすばらしい価値があるということを、目の前の弟子たちさえもまだ十分には理解していませんでした。ましてや、山のふもとにいる何も知らない人々には、その価値を理解することは不可能なのです。だからイエスは「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じたのです。結果だけを触れ回れば、結果だけが一人歩きするからです。

エスが教えてくれた教訓を明日のペーロンに当てはめてみましょう。明日、結果がどういうものであっても、結果だけを言いふらされたりすれば、選手は迷惑するのではないでしょうか。どんな結果であれ、そこまでに通ってきた辛い練習も一緒に分かってもらっていなければ、結果だけ取り上げられても喜べないと思います。これまでの練習も含めて声をかけてもらえるなら、選手は報われるのではないでしょうか。

中田神父の釣りの結果も、前回の苦い経験と貴重な情報が活かされて結果につながったものです。そう考えてみると、土曜日の結果につながる一週間すべてに意味があったわけです。結果を心から喜ぶまでにたどった苦い経験も貴重な情報にも、すべてにおいて神に感謝したいと思いました。

エスの輝く姿にたどり着くまでの受難と死という道のりもありのままを受け入れる強い信仰が育って初めて、私たちはイエスの御生涯について何かを語る資格があるというものです。私たちは結果だけ見て一喜一憂しません。イエスの生涯についても、私の生涯についても、あるいは何かの行事についても、結果を生むそれまでの道のりを地に足をつけてしっかり歩んでいるなら、結果にかかわらずこれまでのすべてに意味と価値を見いだせるに違いありません。

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ちょっとひとやすみ
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▼長崎地区では金曜日の午後4時から「愛し君へ」が再放送されている。「愛し君へ」と言えば馬込教会(なぜそうなる)。ドラマの最終回、主人公とヒロインが結婚式を挙げる。結婚式の司祭はこうじ神父。最初で最後、ドラマのちょい役で出させてもらった記念すべきドラマだ。
▼役者はドラマをとおしていろんな人になるが、ちょい役で出た自分はいつまでもその時の自分から変われなくて、「この馬込教会は『愛し君へ』というドラマの最終回に使われました。その時結婚式に立ち会った司祭はわたしです」といつまでも繰り返し言っている。
▼俳優、女優はどんどん変化していくのに、まったく時間が進んでいない。進歩がないということだ。すでに2年2ヶ月過ぎているのに、過ぎた時間はどう活かされているのか。ドラマで見せる演技や表情はすべて何かしら意味がある。ドラマでさえそうなのであれば、実際の人生はどれほどの人情や機微が織りなされていることか。
オフラインミーティング。ネット上でしか知らない人と、実際にあって交流を深める活動だ。8月5日午後、伊王島沿岸のボートの上でオフ会を開いた。要するに釣りをした。説教の原稿にある通り、マダイ、アマダイ、イトヨリ、エソ、ヒラアジを釣り上げた。交流になっていただろうか?

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===