年間第15主日(マルコ6:7-13)

大きいことを言えた義理ではありませんが、長崎の小神学校では典礼係の先輩が中学生に霊的な話や信仰を育てる話、教訓になるような話を聞かせるという習慣がありました。今でも続いているといいなあと思っています。

高校生はそれぞれ係を受け持つようになっていまして、私は小神学生時代に典礼係を仰せつかりましたので、先輩から受け継いだ伝統に従って中学生の消灯時間15分前になると聖堂に集め、いろんな材料を探してきては話をしました。

いろいろ話したのでしょうが、ほとんど覚えておりません。それでも二つ、確かに中学生に話して聞かせた覚えのある話があります。そのうちの一つ、ラジオの話を少し紹介したいと思います。

神学生にとって、ポケットに入るくらいの小さなラジオは、特別な意味を持っていました。神学校生活は規則ずくめの生活です。その中で反抗期を過ごす中学生、高校生にとってラジオを所有するということはたいへんな規則違反、反抗的な態度だったわけです。

私は高校卒業するまでの6年間一度もラジオを持ったことはありませんでしたが、ラジオを持ちたいと思う人の気持ちは良く分かっているつもりでした。神学校にいれば純粋によい情報しか耳に入りません。深夜に流れているラジオ番組、その典型はオールナイトニッポンだったわけですが、そういう番組を聞いて世間に浸りたい気持ちは理解できたからです。

先輩たちには規則違反をする生徒の持ち物を没収する権限が与えられていましたが、私は結局中学生がたとえラジオを持っていても、それを没収することはしませんでした。理由の一つは、どうせこの中学生たちも反抗期を卒業すればラジオも自分から手放すのだから、あえて強制的なことをしなくてもいいじゃないかと思っていたからです。

私はその代わり、中学生に講話をする典礼係の立場にありましたので、強権的な態度を取らず、もっと中学生の心をつかむような形で反抗期の中でも神学校を辞めたりしないように、反抗しながらも司祭への道に耳を傾けてもらうように促すことを考えたわけです。そこで、規則違反の象徴のようなラジオを話の材料にすることにしました。

話の中身はこういうことです。当時のラジオはつまみをいじって放送のチャンネルに合わせる一般的なラジオでした。さらに一度放送に合わせたとしても、電波が妨害されたり弱まったりして、長く聞き続けるためにはたえず微調整をする必要がありました。

そうして規則違反を犯して学生たちが深夜放送を聞いているのをある程度知っていましたので、私はその事実を逆手にとってこう促したのです。「深夜放送をラジオで聞くためにはいつもラジオのつまみを微調整する必要がある。いちばん良い状態で声を聞くための欠かせない努力だと思う。お前たちはそれが分かっているなら、神さまの声を聞くためにも同じようにしたらいいじゃないか」。

「高校受験を前にして神学校を辞めようか迷っているやつも、先輩のしごきがきつくてやってられないと思っているやつも、イエスは私にどんな声を届けてくれるのか、心のラジオのつまみをいつも調整してイエスの放送に合わせる。そうすれば、イエスの声がよく聞こえて、本当にしなければならないことが聞こえるはずだ」。

「心のラジオも一度つまみを調整すればそれでいいわけじゃない。声が聞き取れなくなってくることもあるから、その時はまたつまみを微調整して、イエスの放送にぴったり合わせるんだ。そうして、イエスからのラジオ放送を聞き逃さないようにしよう」。

どれだけの中学生がその話を理解できた分かりませんが、少なくとも一人、今五島で頑張っている後輩の神父さんは、この話を覚えているといつか話してくれました。その当時これほどまとまった話をしたかどうかは分かりませんが、「心のラジオ」という話をしてくれたことは覚えていると言ってくれたのにはこちらが嬉しくなりました。

今日の福音朗読であえて一つ取り上げますと、イエスは弟子たちを派遣し、「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した」(6・12)とあります。この「悔い改めのための宣教」というのが、心のラジオをつねにイエスの放送に合わせ続けなさいと促すこと、チューニングを怠らないように、ラジオのつまみの調整を欠かさないようにと声をかけ続けることだと思うのです。

何かのきっかけで一度だけ向きを変えることが悔い改めなのではなく、そのイエスへの方向転換を、生涯にわたって続けていくことがまことの悔い改めなのです。もしラジオについての知識が全くなかったら、初め放送が聞こえていたラジオが聞こえなくなったとき、あーこれはもう故障したのだと勘違いすることでしょう。

もしかしたらそれでラジオを手放す人もいるかも知れません。けれども、ラジオは時間が経つと放送からつまみがずれるもので、またつまみを回して調整するとちゃんと聞こえるようになることを知っていれば、古いラジオであってもいつまでも聞きたい放送が聴けるわけです。

私たちの信仰生活も同じではないでしょうか。私たちは悔い改めの宣教を受けたのですが、一度受けたからそれで何もしなくてよいのではなくて、生活が変わったり忙しくなったり、今まで持っていた物を失ったり家族を失ったりしたとき大きく暮らしが変わります。その時に、つまみを調整して、その後もイエスの放送が聞き取れるように調整し続ける。そうして、生涯にわたってイエスの呼びかけに従って人生を全うしたいと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼以前赴任していた教会でお世話になった人を街中で見かけた。夕方5時半過ぎに、飽の浦方面から旭大橋を降りてきて左折して国道202号線に左折して合流するその瞬間だった。その人は通勤用の二輪車に乗っていた。一瞬の出来事だったが、ヘルメット越しに私はその人の顔を確認して間違いないと思った。時間帯からして、仕事を定時で終え、自宅に帰るところだったのだろう。
▼私は駅から歩いて大波止に向かう途中だったので、その人とは左折で一瞬すれ違っただけだが、当時の教会に対する奉仕の様子や、家族のこと、信仰の捉え方など思い出して大波止までの道のりでその人のことをずっと考えていた。頑張っているんだなあ、最後はそう思ったわけだが、一瞬の出来事で、できることとできないこと、それぞれ一つずつ見つかった。
▼できることは、その人のために心の中で神さまに祈ってあげること。たまたまでも、その人と出会った。偶然人生のある一時期出会った。そういう「縁」というものを大切にして、その人のために祈ってあげることは、どこにいてもできるすばらしい働きである。
▼できなかったこと。バイクからの信号が青になって走り出したその人を、私があえて引き留めて話をすることまではできなかったということ。事故につながるということもあったが、何も声をかけるまでもないだろう、そういう思いも働いた。
▼時間も出来事も過ぎ去る。私がいたことを決して忘れないでと、そこまで自分のことを押しつける気はない。お役に立てたなら幸いだし、あとで忘れられても自分がその時にすべきことをしたのであれば、あとのことは気にしない。
▼メルマガを通しての奉仕も、忘れないでなどというつもりはさらさらない。ただ、関わった時期にできるだけのことをする。単純にそれだけのこと。このような謙虚な心構えを、イエス・キリストが支えてくれることを願いたい。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===