年間第13主日(マルコ5:21-43)

今日のような朗読箇所はちょっと読みにくいなあと感じます。その理由は、会堂長ヤイロの娘の物語が始まったところに、途中でイエスの服に触れる女性が登場し、いったん物語が中断してしまうからです。そこでみなさんの手元にある「聖書と典礼」では、イエスの服に触れる女性の話を一段下げて印刷し、「途中にはさまれているこの物語は、場合によっては読まなくてもいいよ」という指示がなされているわけです。ですから、説教師の都合によっては、この部分を省略して読むということもどこかの教会では起こっていると思います。中田神父は、別の考えがあって、途中にはさまれた物語も含めて朗読し、全体を説教のテーマにすることにしました。

私が間にはさまれた物語も含めて読もうと考えた理由はこうです。私たちの生活は、一つのことに取り組んでいてもときどき別の用事が割り込んで来るというのが通常の生活です。畑に出ていたら電話が鳴って仕事を中断したとか、家の掃除をしていたら別の人に呼び出されて掃除を中断しなければならなくなったとか、そういうことがしょっちゅう起こっています。ですから、日々の生活は一つのことがちょうど終わったときに次のことが始まるわけではなく、あちこちで、ほぼ同時にいろんなことが起こっているというのが現実なのです。

そういう現実があるのだということをあらためて思い起こすためにも、今日の朗読は意味があると思いました。会堂長ヤイロは自分の娘の病気が心配でたまらないので、途中で起こっている出来事に足を引っ張られているような思いを持ったかも知れません。イエスがあまりにもやさしい方なので、途中で足を止められるとズルズルとほかのことにも手をさしのべてしまう。どうか娘のことを真っ先に考えて欲しいと、気が気ではなかったのではないでしょうか。

そうこうしているうちに、いちばん恐れていたことがやってきました。会堂長の家の者が「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と残酷な報告を持ってきたのです。会堂長はどう思ったでしょうか。私が会堂長であったなら、こんなところで時間を食ってしまったから、助かる命も助からなかったんだ、あの女のせいだと、良くない感情を持ったことでしょう。

ところで、この12年間出血症に悩まされた女性のいやしが教えてくれることは何でしょうか。それは、病気のいやしだけではなく、イエスとの関わりが始まったということです。それまで彼女は、多くの医者にかかりました。お金で解決できるかも知れないと全財産を使い果たしました。けれどもそうしたこの世の関わり方では、いっこうに事態は好転しなかったのです。イエスの噂を聞きつけ、群衆に紛れてイエスの服に触れたとき、つまり自分にとってイエスとの関わりが必要だと感じたときに、すべてが変わったのでした。

会堂長を始め、会堂長の家の者、取り囲む群衆、おそらく弟子たちも、この事実の大切さが理解できていませんでした。イエスとの関わりを持つことが何よりも大切なのだということが、まだ十分には分かっていなかったのです。マルコ福音記者は、この事実の大切さを理解させる出来事として、会堂長ヤイロの娘の物語に、途中でイエスの服に触れる女性の話をはさんで記録したわけです。この物語全体が、イエスとの関わりの重大さに気付き、イエスから離れないようにすることを学ぶために、途中にはさまれた物語も含めて、全体が意味を持っていると言いたいのです。

このマルコのねらいは、私たちのふだんの生活を見直すヒントも与えてくれます。畑仕事の途中で電話が鳴った。掃除の途中だったのに呼び出された。なんて迷惑な人なんだろうと思うかも知れませんが、少し考えを改めれば、途中で何かを考えさせるためのイエスの働きかけだったかも知れないのです。私の生活を守るあまりに、隣人への思いやりを犠牲にしていませんかというイエスからの働きかけ、イエスが生活に関わろうとするきっかけだったかも知れないのです。途中にはさまれた出来事は必ずしも邪魔なもの、迷惑なものとは限らないということです。

さて会堂長の家に着いてみると、泣きわめく人々が周りを取り囲んでいました。この人たちもイエスとの関わりの中で会堂長の娘を見ることができません。ただこの世から切り離されたことを泣きわめいているだけです。そこでイエスははっきりと言いました。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」(5・39)。すでにこの少女は、イエスとの関わりの中にありました。イエスとの関わりの中にある人間は、たとえ死んでいても、眠っているかのようなのです。イエスとの関わりが始まった人は、決して希望を失うことはないのです。

「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」(5・41)。そして少女はすぐに起き上がって、歩き出しました。イエスとの関わりがこうして見える形で証明されたのです。イエスへの信仰をもって、イエスとの関わりを保って毎日を生きることが、人間の社会生活に本当の意味を与え、価値あるものにするのだということが会堂長と選ばれた弟子たちに示され、今日この朗読にあずかった私たちにも示されました。

私はこの会堂長の娘のよみがえりの中に、隠されたもう一つの意味があるのではないかなあと思っています。それは、娘は「起きあがって、歩き出した」のでした。起きあがったことはよみがえりを印象づける一つの点ですが、歩き出す必要があったのでしょうか。マルコはなぜ、歩き出したことを見逃さずに書いたのでしょうか。少女が12歳になっていたからとありますが、私はもっと積極的に、少女はすでに12歳になっていて、自分になくてはならない方であるイエスを探し求めて歩き出したのではないかと思うのです。

そしてこの小さな発見から私たちが学ぶことのできる点は、イエスと関わりを持って生きていくことの大切さを知り、認めるならば、私たちはイエスを探し求めて歩き出さなければならないということです。日曜日になれば教会に赴き、ミサの中で出会うキリストを訪ね求める。日常生活の中では、傷つき、倒れそうになっている人々の中にとどまるキリストを認めて近寄り、手を差し伸べるために歩き出す、行動しなければならないということです。

エスはご自分と関わって生きていくことの大切さを示してくださいました。イエスの思いに気づいたならば、私たちも歩き始めましょう。イエスとの親しさを失わないためにも、私の身分でいつどんなときにイエスとの絆を確かめることができるか、意識しましょう。私がイエスとの関わりを機会あるごとに深める生活を続けるならば、どんなことが身に降りかかろうとも恐れることはありません。

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ちょっとひとやすみ
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▼月の初めは病人訪問。家庭、病院、老人ホームなどにいて教会に通うことのできない人々にご聖体を運んでいく。今回は伊王島ではなく高島での見舞いの話。ターミナルを降りてすぐの場所に老人ホームがあり、男性の方が入所している。この方は訪ねていくと必ず玄関で待っていてくださり、迎えてくださる。
▼老人ホームを出ると高島教会に戻る。しかし船を下りた時点ですぐにバスに乗っていないため、病人見舞いをした日は山を越えて教会に行かなければならない。ちょっとしたハイキングである。今は梅雨の真っ最中。当然むしむしするし、汗はだらだら流れる。最近は恥も外聞もなく、シャツを脱いで肌着のまま山登りをする。
▼毎月思うことだが、この病人訪問の日だけは誰か車を持っている人に連絡をしておいて、車で送ってもらうようにすればいいのにといつも思う。ところがその時になると連絡を忘れ、結局は山登りをすることになる。今日も汗びっしょりになって、あごからしたたり落ちる汗をコップに入れたら、コップが一杯になった。ウソです。
▼けれども、山登りはもう嫌と言いつつ、伊王島に船で戻ってくるときには何だか仕事したなって感じになって帰ってくる。それはそうだろう。毎月見舞いに行って玄関で必ず待っていてくれ、終わりがけには「来月の訪問は○日ですね」と、一ヶ月後の訪問を指折り数えて楽しみにしている。それだけ喜ばれているのだから、楽して見舞いをせず、これからも山登りをして見舞いに行こうと思う。山登りは嫌だけど。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===