復活節第3主日(ルカ24:35-48)

何かに書き残された出来事には、三つの時間があると思います。福音書に当てはめて考えてみましょう。今週の福音朗読は、復活したイエスが弟子たちに現れ、ご自分の手足の傷をお見せになり、焼いた魚を一切れ食べて、語りかけるという出来事でした。この出来事を考えるに当たって、三つの時間を押さえて読みたいのです。

まずは、出来事はあるときある場所で起こっています。弟子たちの見ている前で、出来事は確かに起こりました。「第一の時」は、「出来事が起こったその瞬間」ということです。本来は、この時間がもっとも大切な時間となります。出来事が今目の前で起こっていますから、その場にいなかった人は決して味わうことのできないすばらしい体験をしているわけです。

次に、起こった出来事が重大なものであれば、多くの場合それは人々に告げ知らされることになります。弟子たちの集まっている前で起こった出来事は、まず目撃者である弟子たちによって人々に伝えられました。弟子たちは目撃者ですから、目で見たことを生き生きと伝えることができます。「第二の時」は、「出来事を生き生きと告げ知らせる時間」です。ただし、弟子たちが直接告げ知らせている様子は、福音書の中にはありません。その様子がうかがえるのは弟子たちの活動が記録されている「使徒言行録」の中においてです。

ところで、直接目撃した弟子たちが生き生きと伝えていた時代もいつまでも続くわけではありません。できるだけその生きた場面を、のちの時代に長く伝える書き方で残すことが必要です。何人かの福音記者と呼ばれる人々が、その使命を引き受けました。私たちの時代にまでイエス・キリストの出来事が生き生きと伝えられているのは、この「第三の時」、「出来事をのちの時代のために書き残す時間」のおかげです。

こうして、私たちには「第三の時」「出来事をのちの時代のために書き残す時間」を通して当時の様子を学ぶことになります。誰も、直接見た人がいないのですから、「第一の時」までさかのぼることはできません。また、目撃者がいないということは、その目撃者に直接話を聞くという「第二の時」も経験することはできないことになります。あくまで、私たちが出来事を知りうるのは「第三の時」を通してということです。残念と言えば残念なことです。

それでも、ほとんどすべての人は、この「第三の時」の中でイエス・キリストを知り、信じるようになりました。ということは、出来事が目の前で起こり、それを生き生きと告げ知らせた頃の迫力が、書かれた書物の中に残っているということです。目の前で起こったときにはどんなにすばらしい体験ができただろうかと、十分うかがい知れるくらい生き生きと描かれているということです。

一例、挙げておきましょう。復活したイエスが弟子たちに現れて、「ここに何か食べ物があるか」と言われて、焼いた魚一切れを食べたとあります。出来事を三つの時間で切り取ってみると、焼いた魚を食べたというその瞬間が「第一の時」です。「第二の時」は、たとえば弟子たちが「イエスはわたしたちの目の前で、焼いた魚をお食べになりました」と力強く話しかけている場面が「第二の時」です。焼いた魚を一切れ食べたのを目撃したと言いますが、冷静に考えると、果たしてそれは、今の時代にどのような意味があるのでしょうか。

もしも中田神父が、駅前に立って、「復活したイエスは弟子たちの前で焼いた魚一切れを食べました」と通りかかる人々に話しかけても、耳を傾けてはくれないと思います。なぜかというと、町を歩く人々に出来事のその瞬間はあまり関係がないからです。むしろ「第三の時」、のちの時代の人々に生き生きと伝わるように物語を書いた人が工夫した、その工夫を知らせなければ人々の心を打つことはないのです。

そこで私たちも、朗読されたルカ福音書の記者がどのような工夫をしているのかを読みとることにしましょう。イエスが焼いた魚を弟子たちの前で食べたというのは、そこにおられたイエスは弟子たちの思い込みでイエスの雰囲気を感じていただけではなくて、目で見、手で触れるような実体としてそこにおられたのだということを伝えようとしているのです。

私はちょっと前に人の服を間違って着ていた夢を見ましたが、間違って着ていた服を着替えたことまで実感があったのですから、てっきり「第一の時」だと思っていたのですが、それは夢でした。弟子たちの体験は夢ではないのです。イエスはそこに確かにいた。いたような気がするのではなく、食べ物を食べて一緒にいることを証明してくださったのです。

この体験が現在読み継がれているわけですが、私たちにとってはどのような意味があるのでしょうか。それは、イエスははっきりと分かる方法で、一緒にいるよと伝えてくださるということです。今日の朗読箇所を、1000年前の人も読み、聞きました。1500年前の人もそうです。どの時代にもイエスが焼いた魚を食べ、弟子たちに語りかけたことが意味を持つとしたら、イエスは今もいつも私たちのそばにいてくださり、そのことをはっきり分かる方法で伝えてくださるということです。

「第三の時」「出来事をのちの時代のために書き残す時間」がどれだけ必要かということが、これではっきりします。私たちがこれからも日ごと朗読されるイエスの出来事を生き生きとした姿で読みとり、イエスを身近に感じる努力を続けましょう。そして今感じられる喜びにより多くの人を引き寄せることができるように行動しましょう。またそのための勇気と知恵をこのミサの中で願っていくことにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼「ながさきさるく博覧会」が開幕している。その中のイベントとして、月末の土曜日に(メインは晩7時からの講演会)”市民セミナリヨ2006「長崎の宗教と文化」”というものがある。全体で7回、講演会とその内容に関係する場所の見学会、ミニコンサートという組み合わせとなっている。たいへん意欲的なイベントである。
▼この説明だけでは分からない方も多いと思うが、長崎さるく博の「さるく」は「歩いて回る」ということ。長崎の各名所を歩いて回って、長崎を楽しんでもらおうというコンセプトである。長崎県の観光課に宣伝をお願いされたわけではないが、当然教会関係は歩いて回るコースに組み込まれていて、10月の閉幕まではきっと賑やか(正直言うとうるさくなりそう)なのだろう。
▼さて初めに紹介した市民セミナリヨ2006だが、教区の新聞の編集長としては当然出席すべきイベントなのであるが、実際には土曜日の晩に行事を組まれても、とてもじゃないが取材はできない。高島教会のミサが終わって帰りの船に乗るのは晩の6時37分、それから大浦天主堂まで足を伸ばしたとしても完全に遅刻である。
▼取材しないわけにはいかないので、今月はもう一人の編集委員に出席してもらっているが、次回からは主催者側に記事をお願いしようと思う。その上で、できれば顔を出してみたいものだ。ちなみに29日(土)オープニングを飾るのは長崎教区の大司教であるが、出席してこちらの落ち度で失礼があってはいけないので、ある意味出席できなくて良かったと思っている。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===