年間第7主日(マルコ2:1-12)

ようやく小型バイクの教習課程を修了して、バイクに乗れることになりました。口で言うのと実際に取ってくるのとでは頭で考えていたよりもはるかに開きがありました。ひょっとしたら簡単に取れるのではないかと思っていましたが、補習が7時間、卒業検定を受けられるかどうかの見極めにも一度落第して、あらためて自分の運動神経がどの程度のものかを思い知らされました。

さて無事に免許を手に入れましたので、今度は乗り物をどこかで拾ってこようと思います。いちおう希望しているのはYAMAHAのSR125というバイクです。あんまり人気がなかったらしくて、今となっては町中ではほとんど見かけないみたいです。そこがねらい目です。

しばらく釣りのできる天気になるまで、伊王島の中を暴走族になって走って回ろうと思います。郵便局員以外でバイクの音が聞こえたら、大明寺の近辺では私ではないかも知れませんが、馬込でブンブン音がしたら、これはもう間違いなく中田神父だと思ってください。ですが夜は走って回りませんのでご安心ください。

今日、福音の中でイエスさまは次のように仰いました。「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」どっちとも言いかねますが、「『免許なんて簡単に取れる』と言うのと、『行って、実際に免許を取ってきたよ』と言うのと、どちらが易しいか」と言われたら、私の経験からすると、免許なんて簡単に取れると無責任なことを言う方が易しい気がします。

ともかく、イエスさまは易しいほうで事を済ませませんでした。人間には決してできない、不可能な道を自らお選びになって、ご自分が神であり人であることを証明しようとされたのです。今週はこの点こそ見逃してはいけないと思っています。

エスが選ばれた道。人間には決してできないその道とは、口で言って示すことは簡単です。それはつまり、「子よ、あなたの罪は赦される」と仰ったことと、「わたしはあなたに言う。起きあがり、床を担いで家に帰りなさい」と仰った、この両方です。

片方だけ言うことは、たやすいかも知れません。ですが、まことの神として、罪を赦す権能をお持ちであることを証明するために奇跡を実行するというのは、証拠が残りますからインチキ詐欺師にはできないわざなのです。まことの神でなければ、奇跡を証拠として罪の赦しを与えることはできないわけです。

また、もう一つの見方からも、イエスがまことの神、まことの人であることをこの場で証ししてくださったのだと思います。それは、イエスが中風の人に「あなたの罪は赦される」と言うことで、彼の罪を主が担ってくださることを意味しています。同時に、「起きて、床を担いで歩け」と仰ることで、主は彼の病を身に負われたということです。

人が、他の人の罪を担い、また体の病を代わりに担うということが、果たしてできるでしょうか。この意味でも、イエスは中風の人の重い荷物をすべて取り除くことのできる唯一の神であることが証明されたと思います。

人間であれば、誰かの病を代わりに担うということはできるかも知れません。寝たきりの人が何不自由なく暮らすことができるように完全な状態で介護をしてあげるなら、その場合は一人の人が他の誰かの病を担ったと言うことができるでしょう。けれどもそれは、誰か他の一人の人についてです。すべての人の病を担うわけではありません。ましてや、同時に罪を担うということでもありません。

ところが、イエスは今日の中風の人のいやし、罪と体の病の両方をいやしてくださったことで、ご自分がすべての人の罪を担い、すべての人の病を担う者であることをはっきりと宣言されたのではないでしょうか。

人間は一人の人の病であれば担うこともあり得るでしょう。ですが、すべての人の病を担い、すべての人の罪を担うことができるのは神以外に考えられないわけです。奇跡についても、当時イエスの時代に奇跡を行う人というのはあちこちに見かけたそうですが、本当の意味で奇跡を行う人とは、奇跡を通してその人の病を担い、同時にその人の罪を担うことのできる人ではないでしょうか。さらに、すべての人の罪を担い、病を担うとなれば、これはもう神にしかなしえないわざなのです。

私たちは、今日の朗読を通して、人間には決してできないその道をイエスが歩まれたことを確かめました。すなわち、苦しんでいるその人の病を担い、また罪をも担ってくださるという道です。私たちがもし病に悩み、罪に苦しんでいるとしたら、今日のイエスの姿を思い起こして希望を新たにいたしましょう。

私の病を、主は担ってくださいます。私の罪を、主は赦し、引き受けてくださいます。病は今すぐになくならないかも知れません。けれども、主はあなたのそばにいて、一緒に病を担ってくださいます。信頼しましょう。罪は、赦しの恵みを通して確かに赦されます。主は赦しの秘跡を通してあなたの罪を担ってくださいます。

今週、私たちはあらためて、イエスに信頼を寄せることができると確かめることができました。信頼を失いかけていたなら、今週からもう一度信頼の道を歩み続けましょう。イエスは二千年前も今も、変わらず私たちの病と罪を担っておられる「主」なのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼「あなたはだれですか」。もしも神さまにそう尋ねられたら、何と答えるでしょうか。「なかだこうじです」。神さまは私の名前など、百も承知のはずです。何と答えたらよいのでしょうか。「中田神父です」。それもまた、神がそうなさってくれたことですから、誰に物を言っているのか?ということになるでしょう。
▼私の今の心境だったら、「わたしは挑戦し続ける者です」と答えるかも知れません。思い立ったことを実行し、日々の雑事をこなし(逃げ回って積み上げているものもあるが)夢に描いたことにも手を伸ばす。そうして、日々挑戦していることを神さまに申し上げるだろうと思います。
▼「なかださ〜ん。前回はこの課題ちゃんとこなせたじゃないですか。どうして今日は同じことが同じようにできないんですか?」39歳にもなってこういうことを言われると、やっぱり内心ムカッと来るわけですが、それでも挑戦し続けなければ扉を開くことはできません。課題をクリアすることもできません。
▼今この時点で、神さまがちょっとした機会を捉えて「挑戦するチャンス」を作ってくれたのかなあ、そう感じた自動二輪の教習でした。それでも、十分意義を認めつつも、しばらくは戻らないぞ〜。もう懲り懲りだからね。あばよ〜。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===