年間第20主日(マタイ15:21-28)

もう5、6年前になるでしょうか。クリスマスの恒例行事となっている街頭募金のために町のショッピングセンター前に立っていたときのことです。クリスマスの頃ですからじっと立っているとかなり寒さがこたえます。子どもたちには募金箱を持たせて立つのですが、寒さでその場でじっとしてくれません。時間を決めて交代で募金箱を持ち、募金箱を持たない子は大きな声を出して、声を上げて体の中から暖めるようにして計画していた二時間を過ごしました。

子どもたちはありがたいもので、一生懸命声を出すように勧めるとその通りに行動してくれます。子どものおかげというのもあるかもしれませんが、毎年、このクリスマス募金には10万円ほどの寄付を集めておりました。募金に立つたびに思うことは、協力してくれる町民の皆さん、心ある人がいるんだなあということと、やはり懸命に声を上げれば、何かが人の心に届いて協力してもらえるということでした。

その中で、忘れられない募金をしてくれた人がいます。結婚して間もない若い夫婦のご主人の話です。かなり遠くにいるときから、この人は自分の財布を出して中を捜し、募金箱に近づいて千円入れてくれました。若いのに感心だなあと思って「ありがとうございます」と声をかけたところ、こんなふうに言ってくれたのです。「カトリックの募金活動ですよね。カトリックの活動だったら間違いないから、使ってください」そう言ってくれたのです。

この言葉には本当に心を打たれました。世の中にはアジアのどこそこの子どもたちのための街頭募金と称していっさい送金せず、集まった募金を着服する悪質な街頭募金もある中で、彼は自分とは違う宗教だけれども、カトリックのすることだったら間違いないと言って、何も疑うことなく協力してくれたわけです。カトリック教会が社会の中で安定した評価を受けていることを肌で感じたのでした。

さらに、あの青年の態度で目立っていたことは、遠くにいるときから、財布を捜して近寄ってきたということです。これは、まだ遠くにいたときにすでに、私たちの街頭募金のお願いに何かを感じていたということになります。それは今日の福音に結びつけて考えると、憐れみをかけてくれたということではないでしょうか。

今日の福音の中で、イエスや弟子たちから見れば外国人であり、神の救いから遠ざけられていると思われていたカナンの女が、憐れみを求める言葉をイエスに訴えかけました。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」(15・22)。

これは表面的には「同情してください」というふうに受け取られるかもしれませんが、神の憐れみはそのような働きかけではありません。実は今日の出来事でもっとも大切な鍵を握る言葉でもありますので、ここから私たちも今週の糧を得ることにいたしましょう。

朗読をよく読んでいくと、「憐れんでください」という言葉が先に考えたような「同情してください」という意味でないことは読み進めていくうちに分かります。ところが弟子たちはカナンの女の言葉を「同情してください」という意味に取り、「この女を追い払ってください」とイエスに願いました。同情してやって、奇跡でも起こして帰してやってくださいというつもりだったのです。

エスはそれに対して、カナンの女に同情を示しません。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」「子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」。イエスはこのとき、カナンの女の本心を確かめようとしていたのだと思います。「わたしたちに同情してください」という意味であれば、イエスは答えてあげようとは思わなかったのですが、カナンの女が神の憐れみの意味を確実につかんでいたのを見て、彼女の願いに答えてくださったのでした。

つまり、今日の物語で「憐れんでください」という叫びを「同情してください」と受け止めたのは弟子たちだけであって、カナンの女とイエスとは、「憐れんでください」という言葉から、神の憐れみがどのようなものかを理解していたのです。つまり、神はもともと憐れみ深い神お方なのです。カナンの女とイエスとは、「憐れみ」という言葉の中に、「同情」ではない何かを見ていたのです。

クリスマス募金の話をもう一度思い起こしてください。若い夫婦がカトリック教会のクリスマス募金に協力してくれました。あのとき若いご主人は、街頭募金をしている私たちに同情したのではありませんでした。同情ではなく、喜んで協力したいという、心からわき出る思いが、彼を動かしたのです。街頭募金のあいだ、「かわいそうに」と思って通り過ぎる人は数多くいたかもしれませんが、募金するためには、かわいそうにだけでない何かがなければ、行動を起こすことはできないのではないでしょうか。

福音に戻りましょう。カナンの女が「憐れんでください」と叫んだとき、実は彼女が叫んだのは、「イエス、あなたは憐れみ深い神のはずです。あなたが憐れみ深く、苦しむ人を放っておけないことをわたしは信じています」という信仰を言い表していたのです。弟子たちが思っていたように、同情してほしいのではなく、神は憐れみ深い神なのだから、本来の姿を示してください、そう言いたかったのではないでしょうか。

エスもまた、彼女の本心を確かめようとしていました。何度かのやりとりの中で、ご自分の憐れみ深さを信じて疑わない彼女の信仰を確かめて、彼女の願いに答えてくださいました。同情ではありません。「あなたは憐れみ深い神なのですから、いつも通り、憐れみ深い神として振る舞ってください。わたしは信じて疑っておりません。」彼女のこうした態度が、イエスが本来そうである「憐れみ深い姿」を引き出すことになったのだと思います。

「恵んであげる」という言い方があります。何となく、かわいそうだから同情してあげるという感じがしないでしょうか。恵まれてないから、かわいそうだから同情してあげるという態度は、人間同士では失礼になることもあるのではないでしょうか。私が協力しようとしている相手は、「かわいそうな人、不幸せな人」であり、私は「恵まれた人、幸せな人」と分けるのは、何かが間違っている気がします。イエスもまた、人間をかわいそうだから同情しているのではなく、憐れみ深い神の思いがあふれ出て、人間に助けの手を差し出しておられるのです。

私たちも神に何かを願うとき、カナンの女の気持ちに立って、願い求めるべきだと思います。神に「恵んでください」と願うのではなく、「あなたの憐れみ深さをどうか今示してください」と願ってみてはいかがでしょうか。神の憐れみ深さを信じて疑わないとき、人は力強い願いを神にささげることができるようになるのだと思います。そのとき神は、「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになりなさい」と、願いを受け入れてくださるのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼交番のお巡りさんにこんなことを聞かれました。「お盆には休暇は取らないのですか?身内の方は集まったりしないのですか?」返事に困っていると、「あっ、カトリックはお盆は関係なかったですね」と、ご自分で納得した様子でした。
▼日本で「お盆」抜きには夏を理解するのは不可能なのかもしれません。日本のカトリック教会ではどのように理解し、吸収しているのでしょうか。一つは、教会の公式の見解を表した「祖先と死者についてのカトリック信者の手引き」がそれぞれの場に応じた対処・解決を助けてくれます。
▼もう一つは、すでにどのような実践を行っているかということです。盆踊りに参加したり、お盆の伝統行事に「伝統行事」として見に行くとか、参加することは問題にならないと考えます。信仰の板挟みになる問題だと感じるなら、信頼している人に尋ねた上で出した答えは神様もとがめないと思います。
▼ついでに。こちらの地域では、「ふくれまんじゅう」を聖母被昇天(8月15日)に作る習慣がありますが、この「ふくれまんじゅう」のことを特別に「ぼんと」と呼ぶのだそうです。いまだに意識しないと呼び方が出てきませんが、意味するところは「盆と、正月が一緒にやってきたような喜び」の表現なのだそうです。ことばはまんじゅうとなった。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===