年間第13主日(マタイ10:37-42)

まじめな信仰の話です。中田神父にとって身近なところで偉いなあと思える方々は、勉強して、後で洗礼を受けた方々です。もとから洗礼を受けている人ももちろん立派なのですが、一通り学んで、その上で洗礼を受けると決めた方々には、素直に尊敬の気持ちがわいてくるのです。

中田神父はこの十四年ほどの経験の中で、おそらく三十人くらいの方を洗礼まで案内したと思います。洗礼を受けようと考えたきっかけは人それぞれでしたが、どの方も学んだことをよく消化して、信じる気持ちに結びつけていきました。しばしば、洗礼を受けるその方の家族は誰一人カトリックの方はいませんでしたし、場合によっては洗礼式に家族がお見えにならないこともありました。

それでも、その人の中には洗礼のしるしが刻まれ、その日から神の子としての新しい生活が始まるわけです。信仰がその人のおしゃれの一つだとか、アクセサリーの一つで、気が変われば取り替える、時と場所によって付けたり外したりするようなものだと考えている人は別として、勉強して洗礼を受けた人は、洗礼の恵み、洗礼の記憶が生活の中心にいつもあるのではないでしょうか。

そして、後で洗礼を受けた人には、これまでのものの見方と洗礼を受けてからのものの見方とでははっきりと違う点があるように思います。それは、今まで自分の目で見、体験したすべてのことを、キリストとの関わりで見るようになるということです。

何も難しいことを言おうというのではありません。たとえば、親子関係を例に挙げると、洗礼を受ける前も受けた後も親子は親子に違いないのですが、仮に親子の仲が良くなかったとしましょう。そのときに、洗礼を受ける前だったら、人としての道に反するから、親子の仲を元に戻そう、そんな気持ちになるかもしれません。もしかすると、人間的には努力をしようという気持ちにまでたどり着けないかもしれません。

ところが、洗礼を受けた後は、人はもう一つの理由から親子を見つめ直す必要が出てきます。その人は洗礼の勉強の中で「十戒」を守りなさいということを学んだことでしょう。具体的には第四の掟です。「父母を敬いなさい」。洗礼を受ける前は人の道だから、父母を敬おうという気持ちで終わりだったかもしれませんが、洗礼を受けてからは「父母を敬わなければならないんだ」という、キリストからのもっと強い勧めのゆえに親子の絆を考える必要が出てきます。

そう考えると、ある人が一定の年齢になってから洗礼を受けた場合、その人の中には必ずイエスとの結びつきが大切な意味を持つのです。ある意味、生まれてまもなく洗礼を受けた人よりも、敏感に考えるようになるのではないでしょうか。幼くして洗礼を受けた人の中には、自分は幼い時に一生涯分ミサに行ったので大人になったら行かなくていいんだとうそぶく人もいます。生まれてまもなく洗礼を受けた人の方が、ああだこうだと言って信仰を衣服のように脱いだり着たりする。そんな危険もあるのです。

今日の福音、いちばん難しいのは「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」という箇所ではないでしょうか。

ところがこの箇所は、洗礼を受けた人にとっては苦労しながらも実は実行しているということに気がつくでしょう。なぜなら信仰を得たあなたは、イエス・キリスト愛する人になったので、以前よりもまして父母を愛する者に変わっているからです。

洗礼を受ける時、あなたは両親の反対を受けたかも知れません。さらに教会の奉仕に自分を捧げるようにでもなれば、今でも親子の絆を断たれている人がいるかも知れない。ですが、洗礼を受けたおかげで、その人はゆるしてくれない親をも愛する人になれたのです。反対する両親を受け入れ、愛する人にまで成長できたのです。理解してくれない父母を愛することで、苦しみながらではありますが、「イエスをそれ以上に愛する者」となっているのです。

もし、キリストに出会っていなければ、反対する両親は単に憎しみの的だったかも知れません。ゆるしてくれない親は、親とは思えなかったかも知れません。ですが今は、キリストに出会い、キリストを愛しているので、ますます父母を無条件で愛せる人になれたのです。キリストをまず愛し、キリストとの絆を堅く保つ人は、かえって信仰を持たなかった時よりも父母を愛せる人になれたのです。

ゆるしてくれない両親を許せない自分でいるよりも、ゆるしてくれなくても私の父母ですと、無条件に愛せる人であるほうがどれほど優れていることでしょうか。キリストとの出会いは、出会わなかった時と比べて、はるかに、あなたを成長させてくださるのです。

キリストと出会い、キリストの弟子になることは、キリストと出会う以前よりも父母を深く愛し、息子や娘を深く愛する人になっていきます。キリストの招きに恐れず答えていく勇気を、今日のミサの中で願うことにいたしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼日曜日、遅ればせながら今年度の信徒総会を開きます。昨年度の決算報告と来年度の予定など。こうじ神父は「主任司祭からひと言ご挨拶いただきます」という大役を仰せつかっております。さあて、何を言おうかなって今考えているぞ〜。
▼「えー皆さん、馬込教会の信徒の皆さんはすっかり生まれ変わりました。活動する信徒になりました。人のために自分を差し出せる人になりました。二つ挙げましょう。一つはお父さんたちで当番に出てくださっている「守衛さん」の務めです。
▼もう一つは、婦人会の方で協力してくださっている「教会掃除」です。たとえば集金は、集金の方が回ってきて預けるのですが、守衛さんや掃除の手伝いは、受け取りに来る人が回ってくるようなものではありません。
▼自分で時間を工面し、教会まで足を運び、お金で済ませないで汗を流してくださっているのです。これを、変わったと言わないで何と言うでしょうか。どうか、今年はさらに踏み込んで、見えないところでも自分を差し出せる人になりましょう。この総会をその手始めに、また一年信者になっていきましょう。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===