キリストの聖体(ヨハネ6:51-58)

今週私たちは、「キリストの聖体」の祭日を迎えております。先週の三位一体の主日の説教で、神ご自身をお与えくださったという神の計り知れない業から三位一体の神秘を考えてみました。今週のキリストの聖体の祭日も、先週に続いて神が人間にご自身を与える深い愛を考える日曜日なのだと思います。そのように理解すれば、三位一体の主日とキリストの聖体の祭日が連続しているのもうなずけます。

私は、ご聖体の姿はイエスがご自分をすべて人間に与えようとされた最終的な答えだと思っていますが、この点を考えていると、幼い頃に読んだ童話「長靴をはいた猫」を思い出しました。詳しい内容はもう覚えていませんが、魔王がローザ姫(だったかな)と3日後に結婚することを宣言し、それを食い止めるために猫が魔王に知恵比べを挑み、「まさかネズミに化けることはできないだろう」と言い出すと、「そんなことは簡単だ」と言ってネズミに化けたところを長靴をはいた猫が食べてしまい、姫は救われるというオチだったと思います。

猫にとって、ネズミは飛びかかって食べることのできる獲物です。先の童話の中で、魔王がネズミに化けることになっていますが、魔王のままでは長靴をはいた猫は勝ち目がありませんでしたがネズミに化けた魔王であれば、飛びかかって仕留めることができるようになります。そして、たとえネズミに化けてはいても、本来は魔王であることに変わりはないという点も、見逃せません。

今日の朗読でイエスは、ご自分をパンであると仰いました。パンは、私たちが手にとって口に運ぶものです。先の童話になぞらえて言えば、イエスは小さなパンの中にとどまっておられるのですが、本来であればイエスをそのまま受けとめるには人間という器では絶対に不足しているのです。

私たちの側からは不足ですが、イエスのほうが一方的に手にとって食べることのできるものに留まってくださったことで、私たちは受け取ることができるようになりました。魔王がネズミに化けた時のように、人間にとってちっぽけなものに見えるパンの姿になられたのです。

しかもご聖体は、手にとって口に運ぶことのできるものでありながら、変わらずそこにはイエスがとどまっておられます。まさかネズミには化けることなどできないでしょう、まさかひとかけらのパンという、こんな姿には留まれないでしょうと考えたその姿に留まって、なお変わらず神でおられるのです。

これは与えるということを極みまで貫いた姿です。魔王がうっかりネズミに化けた時、長靴をはいた猫に魔王としての恐ろしさを伝えることができなくなってしまっていました。そのため猫に食べられてしまったわけですが、イエスはご自身を与え尽くすことで、神としての畏れ、ここでは畏れ多いという意味ですが、この畏れを見えなくしてくださって、人間が手にとっていただくことができるようにしてくださったのです。

極みまで与え尽くした、ということなのですが、童話からではなくて使徒パウロの手紙から与え尽くす愛を説明するなら、フィリピの信徒への手紙、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(2・6-7)という箇所がぴったり当てはまります。神であることすら横に置いて、私たちが手に取ることの出来るお姿になってくださったということです。

ただ、今日の朗読を読みながら中田神父は一つ気になることがあります。それは、今日の朗読の中に、「わたし」という言い方が繰り返し出てくるという点です。短めの朗読の中で、数えたところ15回「わたし」と繰り返しています。あまりにも「わたし、わたし」と言いすぎではないかなあと思ったわけです。

けれどもこの疑問はすぐに解決しました。先週の三位一体の主日に考えたことを思い出しましょう。先週の説教で、誰かが「わたし」という言葉を言うためには、それを聞く相手がどうしても必要だと言いました。イエスが今日の朗読で繰り返し「わたし」と仰っているのは、「あなたがたに与え尽くされるわたし」という意味なのだと思います。ですから「わたし」という言い方を繰り返しながら、人間にご自身を与え尽くそうとしておられることを強く刻みつけようとしているのではないでしょうか。

与えることを貫かれたキリストの愛は、私たちが受け取ることで完成します。愛の極み、愛の形見を受ける私たちは、いただいたもの(聖体)によって変えられていきます。どのように変えられるのか?与える人に変えられるはずです。与えたがらない人間から、与える人間へと変えられていくはずです。

今日、聖体のキリストは私たちに語りかけます。愛の形見をいただいて、キリストしか与えることのできないものを受けたなら、その体験を人々に届けてほしいのです。キリストを通してしか得られないものがありますよ、教会に集まってしか得られないものがありますよ、そしてそれらの恵みは、願えばあなたにも与えられるのですよと、人々に知らせてほしいのです。

愛の極み、愛の形見である聖体をいただいて、私たちは与える愛のすばらしさを学ぼうとしています。私に倣って、与えるものとなりなさいと呼びかけます。そして、私から学んだことを伝えに行きなさいと一人ひとりを送り出してくださいます。人間をすっかり造りかえ、生活に送り出してくださるご聖体に自分を委ね、聖体をいただく喜びを伝える人となることができるよう願いながら、このミサを続けてまいりましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼ウーン、ついにこの日が来たか・・・。「取って食べなさい」(←四月に発行した文庫本形式の説教集です。念のため)を手にとって、同じ内容の説教にならないようにと、慎重に文章を考えております。
▼この現実を皆さんに明かした理由は二つです。一つは、私があと七年か八年若ければ、説教集に当たらずとも二年前、三年前の原稿とダブるようなことは考えられません。書きながら、「これは同じネタだ。書けない」とすぐに気付くはずです。
▼二つ目の理由は、「絶対に同じ説教は書かないぞ」という決意の表れでもあります。いつでしたか説教集を馬込教会の入り口に並べた時、手にとったご婦人が「二冊買わなくてもいいわ。同じ説教なのだから」と仰っていたことを思い出し、決してそうではありませんということを行動で表したいためです。
▼それにしても、自分で自分の説教が印刷された文庫本を読むのって、かなり気恥ずかしいものがあります。さらにサインを後ろに書き込むように周囲から「強要」されておりますが、それはこうじ神父にとっては何だか「恥の上塗り」のような気がしてならないのです。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===