復活節第5主日(ヨハネ14:1-12)

ようやく新しい司祭館に引っ越しいたしました。引っ越してみるといろいろ気付かなかったことに気付くもので、これからいろいろ便利に暮らすことを考えないといけないなあと思いました。勉強机を置いている海側の窓から景色がよく見えるのですが、土曜日は釣り竿を持った兄ちゃん二人を見つけまして、おそらくイカ釣りだったのでしょう。釣り上げるところを見たいなと思っていたら、気になって説教を作ることができませんでした。

二人が近くにいる時はいいのですが、右と左に分かれていくと、もしかしたら右の方が釣り上げるのではないか、いや右の白いTシャツの人に気を取られているうちに左の赤いジャンパーを着ている人が釣り上げるかも知れない。両方に目をやっていたら勉強なんてまったく手に付きません。これは大問題です。

今回司祭館の新築、落成に立ち会って思ったことは、中田神父はいろんなことに「道をつける」ために、あちこちの教会に送られていくのかなあということです。あまり威張ったりするつもりはありませんが、ちょうど司祭館の建設が可能だという時に、私は馬込小教区に送られたのかも知れないと思ったのです。

前でもない、後でもない、ちょうどの時に神はちょうどの人を選んで働かせる。道をつけて、心配ないようにすることが、もしかしたら神から授かった使命なのかも知れないと思ったわけです。
もしそうであれば、私の見立てでは道をつけなければならないものがまだまだたくさんあるように思います。少々の年月ではとても、すべてのことに道をつけられそうにありません。ということでこの新しい司祭館にも、たいがいのものに道をつけるまで居座らせていただきます。

さて福音ですが、イエスはご自分のことを「わたしは道であり、真理であり、命である」と仰いました(14・6)。言葉のもとの意味から考えると、イエスは私たちにとって通るべき道であり、求めて手に入れるべき真理であり、それなしには生きていると言えない命であるということになります。まずはこの点を、しっかり心に刻むことにいたしましょう。

これまで私たちは、イエスを通るべき道としてはっきり捉えていたか、まずこの点から考えてみましょう。道と言っても、足で踏むという意味ではありません。たとえば大事なことを何かしようと心の中で決める時、「これをイエスは喜んでくださるだろうか、反対に悲しむだろうか」と考えてみるということです。こうしてイエスがどう思われるかを考えながら物事を決める人は、イエスという「道」を通って生きている人です。大事なことを決めたり選んだりする時には、つねづねこのような心構えで、イエスという「道」を通るようにします。

また、イエスは「手に入れるべき真理」なのですから、イエスの中にこそ真理がある、答えがあると思って出来事の意味を考えるようにしましょう。引っ越しの直前に、見たことのない二人組の女の人がやってきまして、「三代までのご先祖のためにお祈りいたします」と田村邸にいる私に話しかけてきました。「先祖のために祈るのはわたしのほうが専門だがね」と言ってはみたのですが、相手は何かに取り憑かれたように三代までの先祖のために祈ることは大切だと、玄関前でうるさく言うので、私は話を遮って、「帰れ!」と言いました。

その方々は「はぁ?」と、自分たちが追い払われる理由が分からないようでしたが、誰に向かってものを言っているのかと思いつつ、もう一度大声で「帰れ!」と言ったわけです。帰り際にその二人は、「三代までの先祖が祈りを欲しがってますよ」と遠吠えをしていきましたが、彼女たちの中に真理はないと私は確信しています。先祖のために祈ることはもちろん大切ですが、先祖のためにイエス・キリストに祈り求めなければならないのです。先祖のために祈るその意味とか答えは、イエス・キリストに祈ることの中にあるのです。

そして最後に、イエスは私たちになくてはならない命そのものです。私たちは心と体を持っていますが、たとえば体を持っていれば命を持っていると言えるかというと、そうでもありません。その体を保つ日々の世話がなければ、体は生き続けることはできない、命を保つことはできないのです。たとえばそれは、食べることであったり、体を動かすことだったり、頭を働かすことです。

心もまた、単にそれを持っていると言うだけでは、決して命を持っているとは言えないのです。それはつまり、信仰と置きかえるなら、信仰を持っている、ただそれだけでは、魂は命を保っているとは言えないということです。魂のために、聖体という食べ物が必要です。信仰を支える日々の祈りが必要です、罪に傷を負った魂のために、ゆるしの秘跡が必要です。信仰を持っているだけで教会のお世話を遠巻きに見ているだけでは、命を持っている、命を保っているとは言い難いのです。

そこまで考えてなるほどと思ったとしましょう。それでも私は魂の世話のために教会に近寄ろうとは思いませんと仰るなら、最終的には神がその人の将来を決めることになります。あれだけ教会に近づきやすい雰囲気ができてきました、あれだけ周りの人が声を掛けて誘ってくれました、あれだけ親兄弟が本人の落ち度をかばってくださいました。それでも命を保つ努力を怠るのであれば、それはもう本人の責任で神の裁きに任せるしかないと思います。

幸いに、私たちの教会は目に見えて活気づきました。教会に背を向ける理由も、ほとんど見つからなくなりました。教会の席も、ビックリするほど埋まってきました。そこで私は皆さんお一人おひとりに、今日の朗読の最後の言葉を考えてもらいたいと思います。それは、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」(14・12)というものです。

幼い頃私たちはこのように言われて励まされたことがあるはずです。「練習すれば、もっと上手になるよ」。それは、どんなきめ細かいトレーニングにも勝るひと言です。もっと上手になれると言われて、練習しない人はいません。イエスは最後に、「この教会で、道、真理、命であるわたしについてくれば、もっと素晴らしい信仰生活を送れる」と励ましておられるのです。約束してくださったもっと大きな業を見届けることができるように、新教皇と一致して、このミサをお捧げしてまいりましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼内憂外患。司祭館の中は物で溢れ、必要なものがまだ見つからない。歯ブラシがない。スターの汗を拭いたハンカチのように、誰かに持っていかれたかと思っていたら、案外あっさり見つかった。
▼こちらの小教区では司祭を支えてくださる方がいて、食事・掃除・洗濯をまめにこなしてくださる。いわゆる「賄いさん」と呼ばれている人だが、72歳とはとても思えない元気と仕事のこなしぶりである。
教皇様逝去の特集号が、長崎教区広報誌の編集長就任直後の第一号となった。思い出深い。何度も読み返すのは、体裁とか、文字の間違いとか、やはり編集長ならではのことが気にかかる。78歳の新教皇ベネディクト16世は、初めての采配などは緊張しないものなのだろうか。
▼これからが大事。司祭館を建て替えてもらったのに割に合わなかったと言われては元も子もない。諸般のことに道筋を付け、誰にその後を託すことになっても、私の影は残さずに信徒がしっかり受け入れる体制に持っていきたい。信徒は転勤しないが、司祭は転勤するのが常だから。まだしないけど。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===