復活節第3主日(ルカ24:13-35)

復活節第3主日がやって来ました。まず、この日曜日にわたしの頭に浮かぶことは、御復活明けの二週間後の日曜日は、司祭の移動の日だなあということです。いろんな教会で転勤した司祭が最初の日曜日を迎える日が、この第3主日です。私も、ちょうど一年前にこの小教区に来たわけです。そして、今年変わらずにここにいることができたことが、今日何より嬉しいことです。

福音は、今年エマオの弟子を取り上げています。「目は遮られ」「暗い顔をしていた」二人の弟子が、復活したイエスと出会い、「目が開け」、離れようとしていたエルサレムに戻りました。今日は、登場する二人の弟子が、いったんは離れようとしたエルサレムに戻っていく様子から、糧を得ることにしたいと思います。

二人の弟子は、エルサレムからエマオに向かう途中、出来事を体験しました。エルサレムを離れようとしたのは、おそらくエルサレムに留まっていても仕方がないと感じたからではないでしょうか。
エスが生きていて一緒に活動していた時には、エルサレムは希望の場所だったでしょうが、イエスが苦しみを受けて十字架で最期を遂げたことで、エルサレムはイエスが死んだ場所となったのだと思います。もはや、エルサレムに留まっていても何も得るものがない。そう考えて、エルサレムを離れようとしていたのでしょう。

そんな二人に、イエスは現れ、一緒に道を歩きます。この「一緒に歩き始めた」という動作は、単に一緒に歩いたというだけではなくて、彼ら二人の人生に、そばにいてくださるということも考えてよいと思います。彼らと一緒に、イエスは歩き続けてくださる。まずはそのことを二人の弟子が理解して、自分たちの行く手にはイエスが常にいてくださると、教えようとされたのではないでしょうか。

二人の弟子は、イエスがていねいに聖書をひもとき、心を燃え立たせてくださるイエスに引き寄せられています。まだ目は開かれず、イエスだとは分かっていませんが、「一緒にお泊まりください」と無理に引き止める様子は、もっと長くそばにいて欲しいと願っている何よりの証拠です。まずは復活したイエスは、二人の弟子が体験したように「一緒にいて欲しい、そばにいて心を燃え立たせて欲しい」と感じる方だということです。

そして、一緒に食事の席についてイエスがパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを割いてお渡しになった時、彼らの目は完全に開かれ、イエスだと分かりました。ちょうどその時イエスの姿は見えなくなったのですが、見えなくなっていても彼らは喜びに溢れていました。

希望をなくしてエルサレムを後にしていた時、イエスはいつもそばにて心を燃え立たせてくださる。またイエスは私たちを集めて、今もパンを割いてお与えになる。つまりイエスは復活して私たちと共にいてくださるのだと分かったので、それで十分だったのです。

二人の弟子はエルサレムに戻りました。エルサレムに戻りなさいと言われたわけではありません。それまではエルサレムは留まっていても仕方ない場所になっていましたが、イエスが死の直前、自分たちと共にいてくださったのはエルサレムであり、パンを割いてお渡しになったあの最後の晩餐を体験したのはエルサレムだったのです。今自分たちはイエスが共におられる、復活したと悟ったのだから、エルサレムに戻るのはごく自然なことだと考えたのだと思います。

エスはもう共にいてくださらないと思ってエルサレムを離れたのですが、復活を体験した今、生前共にいてくださった場所であるエルサレムで、今もイエスは私たちと共にいてくださる、復活して共にいてくださると証しする必要を感じたのです。復活を体験した今、エルサレムにはイエスが共にいることを実感できるようになったのです。

二人はまっ先にエルサレムに留まっていた弟子たちに復活体験を告げます。するとエルサレムに留まっていた弟子たちも、復活体験を語り合っていました。エルサレムで、イエスと食事の席に着き、最後の晩餐を共にしたあのエルサレムで、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)という復活体験を味わったのです。そうであれば、弟子たちはこれからもエルサレムに留まり、集まってパンを割き、賛美しながら復活の主を証しする使命があります。

実は私たちにも、復活した主が共にいてくださると感じることができたなら、弟子たちがおこなったように互いに集まり、パンを割いてそれを食べ、復活の主を証しする必要があると思います。今の私たちに、復活した主が共にいてくださると感じられる何かが与えられているでしょうか。

私は、十分に与えられたと思っています。本日四月十日は、司祭館の落成という喜ばしい日なのですが、この司祭館が完成したこと一つを取っても、復活した主が共にてくださり、今日まで導いてくださらなかったなら、決してこの日を迎えることはできなかったと思います。

過ぎた水曜日に、長崎県の建設課の担当者でしたか、設計士の方を立ち会わせて検査に来ておられました。私たちはそれを見守ることしかできませんでしたが、その間にちょっと会話で漏れてきた言葉を思い出します。それは、「これからの法律では、馬込地区にはもう新築の家は建てられないよねぇ」という言葉でした。

家々が折り重なっている馬込地区では、お隣からこれだけ離して家を建ててくださいと言われても、不可能だと言っていたのです。そう考えると、今この時期に司祭館が完成し、無事落成できたことは、復活した主がそばにいて私たちを励まし、事業を完成させてくださったとしか説明のしようがないわけです。

何とかしなければと思っていたのに、誰も手をつけることができませんでした。きっかけを私は付けたかも知れませんが、すべてに働きかけて計画を完成させてくださったのはそばにいてくださった主イエス・キリストだと思います。主が復活しておられなければ、そばにいることはできません。思い出だけでは、そばにいることはできないのです。そう考えるだけでも、私たち小教区は、今年のこの季節に、復活した主を体験できているのではないでしょうか。

ここまでは、主がそばにいて助けてくださいました。これからは、また新たな歩みを始める必要があると思います。主がそばにいてくださるのですから、一人でも多くの人に、今主は復活して、私たちのそばにいてくださると証しを立てる必要があるのです。私たちの間でおこなってくださった驚くべきわざを、次の世代に、周りの人に知らせることが、この先の私たちの使命だと思います。

これからも、主は生きておられる、復活してそばにいてくださると、体験、経験を通して証しを立てることができるように、そのための力を主に願うことにいたしましょう。そして、午前十時からの司祭館落成式とミサの中で、喜びを分かち合いたいと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼マスコミも今は「報道すること」以上のものを求められているのかなと思った。ローマで勤めておられる日本人の枢機卿が、根掘り葉掘り質問されている様子を見て、「何か他局と違う新鮮なもの、ビックリするもの」を報道することが、今求められているようだ。
教皇選挙についてNHKはかなり綿密な取材をしたのか、ネタを持っていたのか、まるで教皇選挙に立ち合ったかのような選挙の様子の紹介だった。恐れ入った。秘密選挙でありながらあれだけ報道されているのであれば、もはや秘密にしている意味もないのかも知れない。
▼「ええ?」と声のあがるような人が教皇様になって、右か左かに梶を切ったとする。教会は様変わりするのだろうか?電子メールで教会の手続き上の書類が飛び回り、聖書の勉強会もテレビ画面で自宅にいながらあずかれたり、司祭職の根本や、結婚の大前提も大きく様変わりするのだろうか?
▼少なくとも私は、26年職務を全うされたヨハネ・パウロ二世と同じくらいの時間を、これからの教皇と共にすることだろう。あまり意識しなかった26年だったような気がするので、新教皇様とは心を共に歩いていきたい。ともかく、ゆっくりお休みください。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===