四旬節第1主日(マタイ4:1-11)

思いがけないチャンスを与えていただきました。皆さんとこうしてミサを捧げるのは十ヶ月ぶりです。今回は小教区の行事との兼ね合いで間瀬教会の説教だけをさせていただくのですが、近況報告と今週の福音の分かち合いをしたいと思います。

このたびの司祭館の工事見積は、解体工事も含めて2350万でした。必要な資金のすべてが集まっているわけではありません。教区本部からの借り入れもあります。ということで、直前までお世話になっていた小教区にお願いに行くのは大変心苦しかったのですが、一月十日長崎の小江原にあるお告げのマリア修道院本部でお会いした信徒の方の言葉に勇気づけられてお願いに行くことにしました。

お会いした際に、「神父様から何も言われていないのにこちらが先に動くのは動きづらいので、ぜひ一声かけてください」というありがたい言葉をいただきました。私自身は、ちょっと前まで苦労を分け合い、いろんな無理もお願いしたりしていっしょに過ごした皆さんにお願いには行けないと思っていたので、顔を出さなかったわけですが、私が思う以上に皆さんが気に掛けてくださっていることがよく分かりましたので、お言葉に甘えてやって来た次第です。

皆さんの御理解をいただけるなら、二つの方法でご協力をお願いします。一つは、箱を用意しましたので、お気持ちで結構ですから、ご寄付いただければと思います。封筒も用意していますので、ご利用ください。
もう一つは、郵便での振込です。銀行ではちょっと手数料がかかりすぎますので、郵便で振り込んでいただければ助かります。振込先は、中田神父の通帳にしておりますが、絶対にねこばばしませんのでご安心ください。
皆様の寛大な協力をお願いいたします。

では、福音の学びをいただくことにしましょう。今週は四旬節第1主日です。これから受難と復活の道を辿るイエスと歩みを共にするその最初の週です。そこで、今日朗読されたみことばの中で、のちにもう一度聞くことになる大事な言葉を心に留めて持ち帰ることにいたしましょう。

皆さんは、同じことを二度繰り返す人と聞けば、ちっとも学習しない人のことを思い浮かべることでしょう。一度怪しい人に引っかかって、また同じことを繰り返す人がいれば、懲りない人なのだなあとか、ちっとも学ばない人だなあと思うことでしょう。

私も、一度起こしたことからは何かを学んで、同じことは繰り返すまいと考える人間のつもりです。たいていの人は、一つの失敗を糧にして成長していくものだと思います。学習するわけです。この経験を、今週の朗読の中から二箇所、当てはめてみたいと思います。

一つは、イエスに近寄る悪魔の言葉です。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」(3節、6節)。この、「神の子なら」という言葉は、十字架上の最後の場面でも、再び周囲を取り囲む群衆の口に上ります。「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(マタイ27・40)。

私たちは先に経験で確かめました。一度目は掴めなくても、その時の失敗や取り逃がしを糧にして、二度目は逃さないと。同じように、悪魔の誘惑に仮に一度引っかかったとしても二度目は喰わないという覚悟を、イエスはご自身の模範から学ばせようとしているのだと思います。

もちろんイエスは最初から悪魔の誘惑に引っかかったりはしませんが、「神の子なら」という言葉が宣教生活の始めと終わり、二度繰り返されているという点は、私たちに何かを学ばせようとしているのだと思います。

もう一つ、悪魔の三度目の誘惑をイエスは制圧します。「退け、サタン」(10節)。そしてこの言葉は、宣教生活が佳境にさしかかる時、イエスにしか為しえない苦難の道に足を踏み入れようとする時、ペトロに向けても言われたのでした。「サタン、引き下がれ」(マタイ16・23)。

どちらも、イエスが歩こうとする救いの道を遮ろうとした時に拒絶したのです。私たちも少なくとも二度目に「サタン、引き下がれ」という言葉を聞く時、イエスの道を私は遮っていたのではないか、考えるべきだと思います。

日曜日毎に私たちはこうして集まり、礼拝を捧げています。主の平和とあいさつを交わし合います。時には、めずらしい人とも教会で会ったりします。普段は近所づきあいしている人なのに、教会の中で会って「めずらしいねぇ」というあいさつは困りものですが、続けて日曜日の礼拝に顔を出していれば、聖書の朗読の中で「あ、この言葉は前に聞いたことがある」とか、もう一度同じ言葉を聞くこともできると思います。

この、「二度目に巡ってくるもの」を、私たちは逃さぬようにしたいものです。特にこの四旬節、お一人おひとり、神に立ち返るまたとないチャンスが巡ってくるかも知れません。あの時にまともな暮らしを選んでいれば良かった、あの年代の時にあの人の忠告を聞き入れていれば良かった。そういったきっかけをもう一度与えられるかも知れない。どうぞ、それらを再び巡ってきた立ち返りの機会と心得て、生活に信仰の物差しを取り入れることにしましょう。

現在中田神父は馬込教会司祭館の新築工事に没頭しているわけですが、司祭館の新築工事のチャンスは、大きな見方をすると今回が二度目のチャンスと言えます。私は太田尾の小教区に赴任する前に滑石教会の助任司祭だったわけですが、もしもあの教会に居座り続けるならば、もしかしたらそちらで聖堂と司祭館の新築工事に着手していたかも知れません。現在滑石教会もまた、聖堂と司祭館建設の青写真ができています。

滑石教会の時は、条件がすべて揃っていなかったのだと思います。ほんの少し、司祭館と教会の新築に動き出したところで転勤していきました。それが、今回の馬込教会では条件がすべて揃って、私は二度目に巡ってきたチャンスをぐっと引き寄せることができたのです。

人間だれでも、一度目は聞き逃すかも知れません。ですが、次に回ってきた時には同じことは繰り返さない。人間同士の過ちであれば、二度は同じ過ちを繰り返さない。チャンスであれば、今度巡ってきたら必ずものにする。その、同じ思いで信仰生活の実り、特に立ち返りの実りを豊かにいただけるように引き続きミサの中で願うことにいたしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼馬込教会の写真を使ってのポストカードは秀逸な仕上がりでした。今回印刷した枚数がなくなったあとは、仕入れからすべて教会役員に任せようと思います。私はどんなことでも道をつけるのみ。
▼道順をつけてあげれば、多くのことは他の人でもできます。そして、軌道に乗ればそのうちに自分たちの活動として自信を持てるようになります。これ、私のいちばんの楽しみ。今回のポストカードも、将来は私の姿は消え、活動だけが残ることでしょう。
▼たまらない快感です。仮に、という話ですが、いつか私が今の教会を卒業し、また思い出してこの絵葉書を見に行った時、私が始めたことを誰も覚えていないとしたら、それこそ快感の極みです。右の手のしていることを、左手に知らせない。これぞ職人芸。
▼どこに行っても、何か一つはそういうことをしてきました。この姿勢が貫けるあいだは、司祭職は快感です。久しぶりに長崎地区の会議に出席した時にもそうでした。私がコピーし、印刷して残したパンフレットを、十年経っても大切に使っていました。この快感を他の司祭は理解しているのでしょうか。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===