四旬節第2主日(ルカ9:28b-36)

生月教会の黙想会に行ってきました。こちら大島と同じく、「橋が架かっているけれども、島の暮らし」という環境ですから、お互いに通じ合うものを感じました。私にとっては、よく似た場所で説教をさせてもらいましたので、そう緊張することもなく、のびのびと話をさせてもらいました。こちらを留守している間に、何かと不便をおかけしましたこと、お詫びします。
さて、福音はイエス様の姿が変わり、いっしょにいた弟子たちがその神々しさに我を忘れたという様子が描かれていました。ペトロは、あまりに神々しい姿を見たものですから、自分で何を言っているかも分からないうちに「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう(以下省略)」と言い始めます。
気持ちが高揚して、何を言っているのか分からなくなる。何度か私はそういう場面に立ち会ったことがありますが、そんなときにどんな言葉を返すのか、考えてみると難しい気がします。
「何言ってるの?あなた変だよ」と言えば、相手の心を傷つけるかも知れません。また、本人が舞い上がってしまっているうちに出てきた言葉ですから、それを咎めるのも適当ではないかも知れません。
少し配慮した言い方をすれば、「私の考えはこうなんですよね」と、話している相手のことばには直接触れないで、「こう考えたほうが、的を射ているのではないでしょうか」と、やんわりと返すことでしょう。
ペトロが、自分でも何を言っているか分からずに話したあとに、雲の中から声が聞こえました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」。雲の中で響いた声、それは父なる神の声ということですが、神はペトロのことばに直接触れようとはしませんでした。「お前は何をトンチンカンなことを言っているんだ」などという言い方はしなかったのです。それは、舞い上がっているペトロへの配慮だったのかも知れません。
今日の福音を考える一つの鍵は、神様の配慮が込められたことば、「これはわたしの子、これに聞け」を思い巡らすことにあります。何をどう聞きなさいと仰っているのでしょうか。そしてこの声は、イエス様といっしょに山に登ったペトロ・ヨハネヤコブだけに言われたことばなのでしょうか。
聖書の中で「聞く」ということばは、旧約聖書の時代から繰り返し使われてきた言葉です。預言者たちが神の権威をもって話すとき、「聞け、イスラエルよ」という呼びかけをしたのがその代表です。
そして、イエス様もまた旧約聖書の言葉を引いて、神を愛するという第一の掟(「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」)を教えました。
この二つの例からも、聖書の中では、「聞く」という働きはとても大切なものとして扱われていることが分かります。もっと詳しく話せば、「神の言葉を聞き受け入れる」とは、単に注意深く耳を傾けることだけでなく、心を開き、実践し、聞き従うことまで含まれているのです。神のことば・神の声を聞くとは、聞いて、従うことを含むのです。
そう考えるとき、雲の中から聞こえた声は、イエスにこれからも聞き従っていくこと、これから起こるであろう出来事に恐れずについて行くことをさとしていることになります。仮小屋を建てるとは、イエス様の歩みをいったん止めてしまうことであって、イエス様に従うこと、聞き従うことにはならないのです。
今日の出来事を考えるもう一つの鍵は、出来事の前後が「死と復活の予告」ではさまれている、ということです。死と復活の予告があり、お姿が光り輝く出来事があり、再び死と復活の予告を迎える。ということは、全体としてはやはり死と復活へと向かっているわけです。死と復活への歩みに、停止や休止はない、歩みを止めることなく、御子キリストに従いなさい、それが「これはわたしの子、かれに聞け」という意味なのです。
死と復活への歩みであれば、それは限られた弟子たちだけの問題ではありません。私たちも含めて、出来事を見届けるために、歩みを止めてはならないと思います。
死と復活への歩みが、光り輝く栄光を現す道です。私たちがこの困難な道を付き従い、死と復活が栄光への道であることを悟らせていただけるように、四旬節の準備の期間をさらに一週進めていくことにいたしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼生月教会の皆様、お世話になりました。こうじ神父は五島で言葉を覚えたためか、粗野な部分があったり、調子に乗った言い方をしたりして、上品な方にとっては気分を害するようなことがあったかも知れません。
▼感謝式を黙想会の最後にしていただきましたが、身に余るお言葉をいただき、恐縮しております。ただ、「五島弁をときどき織り交ぜてくださり、親しみを覚えました」のところは、実は、五島弁が抜けないために、そうなってしまうのです。「うまく織り交ぜた」わけではありませんので、あしからず。
▼それにしても、生活の場所としている土地をちょっと離れてみるって、ためになるものです。三日間お出かけしただけなのに、戻ってみると太田尾の子供たちが新鮮に映ったり、いつもと同じミサなのに、改めて感謝の気持ちが湧いてきたりと、リフレッシュさせていただきました。
▼最後に一言。生月でこのメルマガを読んだり、配信を受けておられる方がいらっしゃったら、掲示板などに顔を出してください。お待ちしております。あと一言。三日間頂いた料理が、忘れられません。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===