王であるキリスト(ヨハネ18:33b-37)

「真理に属する人ば皆、わたしの声を聞く」(Jn18:37)。イエス様はピラトの問いに答えてこう言われました。今日は教会の暦で、一年の最後の日曜日ですから、年の総決算をしたいと思います。その手助けとして、ピラトに向けられたこの言葉を、私たちもいっしょに考えてみましょう。

はじめに、今日朗読された箇所が、どのような場面だったのかを押さえておきましょう。二人がいる場所ば裁判の席です。そしてピラトば裁判官で、イエス様は裁判を受ける人になっています。イエスをピラトの元に送ったのは「同胞や祭司長たち」でした(v.35参照)。場面だけを見れば、ピラトが裁く人で、イエス様は裁かれる人です。

ところが、よくよく朗読を読み返すと、誰がこの裁判で裁かれているのか解らなくなってきます。ビラトとイエス様のやり取りを生き生きと伝えるヨハネは、二人の心の動きにも触れました。ビラトははじめこそ「尋ねた」となっていますが、それ以後は「言い返した」「言った」となっています。そこには権威者としての裁判官の姿はありません。ただイエス様の威厳のある言葉に戸惑い、抵抗を試みている被疑者の姿があるばかりです。

エス様の方はというと、三度とも「答えた」となっています。さらに最後の答えは、まるで判決文のような響きがあります。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人ば皆、わたしの声を聞く」(v.37)。このときピラトは、「あなたはわたしの声を聞くのですか、聞こうとしないのですか」と、逆にイエス様から問い詰められていたのです。

実はこの裁判の席では、イエス様が裁かれているのではなく、ビラトが裁かれていたのでした。イエス様はみ国の王として、地上の王を裁き、真理に心を開くように促していたのです。真理に心を開くとは、ご自身「道、真理、命」と言われたイエス様に心を開くことです。ピラトば、イエス様の見えない裁きに従わず、「真理」を受け入れることを拒みました。

私たちばどうでしようか、イエス様の呼びかけを聞いて、どんな態度をとるのでしようか。ここで、「イエスを王として受け入れる生活」に目を向けて欲しいのです。ひとことで言うと、「王がいて今の私たちの暮らしがある。感謝しよう」ということです。ですからこの王をいただいたことを誇りに思い、王の導ぎに全幅の信頼を置くことが、王を王として受け入れることになるわけです。

王の導きに従うということで、一つのたとえをお話しましよう。テレビがここまで普及していなかったころ、世の中のことを知る道具はラジオでした。今はラジオも高性能になって、自動で適当な番組を見つけてくれるまでになりましたが、かつては大きなダイヤルを少しずつ回しながら、聞きたい番組に合わせるというのが普通でした。

ところがこのラジオ、電波の弱い地域ではどんなに高性能のラジオでも、番組を安心して聞きつづけるというのは簡単なことではありません。お隣の韓国からは、出力の高いラジオ放送が流れていて、最初はぴったりその番組に合わせていたのに、いつのまにか割り込んできて、しまいには放送が乗っ取られてしまうということがしばしば起こります。英会話の放送をカセットテープに録音したつもりだったのに、あとで聞いてみたら、半分はハングル語に変わっていたということも珍しくなかったわけです。

本気で、きれいな放送を録音するためには、ラジオの前にへばりついて、乗っ取られそうになるダイヤルを頻繁に調整し、いつも聞きたい番組に修正しなければなりません。この、「絶えず徴調整して、合わせていく」という姿が、実はイエス様を王として受け入れる、コツではないかと思っています。

王であるキリストは、いつも正確な音て私たちに導きを与えてくださいます。問題は私たちのラジオ、受信機が、いつもその周波数にあっているか、ということです。はじめぴったりとあっていたものも、いつのまにかいろんな番組を聞いてみたりしているうちに微妙にずれはじめ、雑音でほとんど音声が聞き取れないといった状態になっているのではないでしようか。そんなとき必要なことはただ一つ、自分からイエス様のほうにダイヤルを調節することです。ほかの番組にではなく、イエスの導きに常に敏感に、ダイヤルを合わせていく努力です。

これまでは、うまくいっていたかもしれません。ですがダイヤルを合わせる努力は、生涯にわたるものです。私たちは、生きている間ずっとキリストの声に耳を傾け、なければならないのです。こうして私たちは、あなたが指導者で、王なのですということを、生活で証しし、生活の中でキリストを王としていくのです。

もう一度、イエス様の最後の言葉を繰り返したいと思います。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。「皆」と言っているわけですから、ピラドをはじめ、すべての人にあの判決文は読み上げられたのです。判決に抗議することはできません。この一週間を、最後のチャンスとして精一杯生き、感謝のうちに今年の典礼の暦を終えることがでぎるよう、続けて祈ってまいりましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼熊本・国立ハンセン病療養施設を訪問いたしました。ご存知の方もおられるかと思いますが、ニュースで取り上げられもした療養所です。私たちの一行は「目の見えない方々」に録音テープで声の奉仕をする「マリア文庫」の定期訪問でした。
▼2時間ちょっとの訪問でしたが、今年も勇気と力を入所者から頂いて、帰ってきました。複雑な思いの中で今日まで生き抜いた人が、心から私たちの訪問を喜んでくださり、別れを惜しんでおられる様子を見て、「心から喜びが溢れるって、すばらしい」と思ったのでした。
▼私たちは表面上の喜びをたくさん持っているあまり、薄っぺらな喜びで満足しがちです。嬉しくて嬉しくて、そんな経験が少なくなって、人に届ける喜びも、深い喜びが届けられなくなってきたのではないでしょうか。
▼福音のメッセージは、つねに内面の深い喜びに目を向けさせてくれます。一つでも二つでもそれらを拾い、分かりやすく、生活に繋がる形で届けることができるように、これからも日々精進したいとの思いを新たにした訪問でした。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===