年間第22主日(マルコ7:1-8,14-15,21-23)

私が土曜日の昼に欠かさず見ている番組があります。NHKの「バラエティー生活笑百科」という法律相談の番組です。「四角い仁鶴がまあるくおさめまっせ」は、テレビを見た人なら絶対に忘れないセリフですね。

別にテレビの受け売りをするつもりではありませんが、法律という、かなり取っつきにくいものを、とても親しみのある形で取り上げているところはとてもすばらしいと思います。加えて、番組が長く続いていることにも、感心だなあと思うわけです。

「ゲスト回答者、法律はどないですか」「さっぱりです」というやりとりがよく聞かれるように、法律そのものは味気なくて、取っつきにくいものかも知れませんが、あの番組のように身近にあったことを取り上げて、どの法律に照らして身近な話題を考えるか、工夫をすれば法律も楽しく学べるのだというお手本を見せてもらっていると感じます。

ここから二つのことを私は考えてみました。一つは、身近な出来事を取り上げながら、聖書のどの話に照らして考えるか、工夫をするなら、聖書はもう少し楽しく読むことが出来るに違いないということです。

マルタとマリアの話そのものはちょっと取っつきにくいかも知れませんが、たとえば(本当にたとえば、と言うことですが)上沼恵美子さんとそのお姉さんの話に結びつけて紹介するなら、身を乗り出して聞くかも知れません。専門家として意見を述べる人と、話を身近なこととうまく結びつける人が協力すれば、画期的な聖書の勉強会ができるかも知れませんね。

これは一つなんですが、一方では、「バラエティー生活笑百科」を欠かさず見ているからと言って、そのうちに私たちが法律相談に乗って上げられる人になるかというと、そうはいかない。これもまた、もう一方の事実なのではないでしょうか。楽しい話だけで法律の専門家になれるはずはありません。やはりその道の専門家であるためには、大切な部分は、砂を噛むようなことでも暗記したり十分理解しておく必要があると思うわけです。

聖書の話に当てはめてみると、身近な話題にうまく当てはめて話を解き明かしていけるところもあるわけですが、物語に流れる一本の中心線とか、話を書きつづっている人が常に心に留めていることなど、どうしても必要なことは身近な話とは別に学んでおく必要があります。

たとえそれが、砂を噛むような努力であっても、中心にあるものを学ぶことを怠れば、落ちてくる葉っぱをかき集めるようなもので、どれだけ集めても一本の木には育たないと思うわけです。

今日の朗読箇所では、ちょうどこうしたことを考えさせる話が取り上げられました。「昔の人の言い伝え」を何より大切にする当時の指導者たちは、言い伝えを守らない弟子にあまり神経をとがらせないイエス様がたまらなく許せなかったのだと思います。

エス様は「昔の人の言い伝え」をそこにいる指導者たちほど神経質に考えていませんでした。たとえば、私たちがあまりにもおいしそうな料理を前にして思わず箸で口に運んだとします。

あっ、と思って飲み込んでから食前の祈りをしたとしましょう。イエス様と指導者たちがそこにいたとしたら、イエス様はまあそれでも良いと思ってくださるわけですが、指導者たちにはたまらなく許せないことなのです。思い出して祈りを唱えても、当時の指導者たちの考えでは「祈りをせずに箸をつけた汚れた人」と見なされるのです。

私たちはどうでしょうか。箸をつけたあとで思い出して食前の祈りをする人を見て、「何とはしたない、しつけがなっていない」と、あとで祈りを思い出したことをいっさい受け付けないというようなことをしていないでしょうか?

または反対に、決められたことを忠実に果たしさえすれば、あとでその何倍ものつまずきを与えても何とも感じない、どこかが麻痺しているのに、平気な顔で暮らしているのではないでしょうか。

こういう厳しい呼びかけは、どうしても自分だけは横に置いて考えてしまうものです。「誰のことを言っているのだろうか」と考えがちです。そうではなくて、まっ先に自分の生活を探し回って、自分が果たしている正義の何倍も人に対してつまづきを与えてはいないか、または与えているではないかと、正面から受け止めたいと思います。

朝一番にすることが礼拝であったとしても、その後一日かけて朝の礼拝の何倍もつまづきを与えるのでは元も子もありません。途中もう一回くらいは振り返る時間があれば、道をそれることも減るかも知れません。

そして一日の終わりに、神様の前に自分を置いて、私の一日は、神様から離れない一日だったか、遠く離れてしまったのかを振り返って一日を終わる。一日一日が、神様の前で良い一日だったねと言ってもらえるような時間を過ごせるよう、必要な恵みを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼八月の最終週、郷里の上五島有川町に帰省しました。寝床を三日間変えただけの帰省で、釣り三昧でも、家の手伝い三昧でもなかったわけですが、長男息子がそこにいるだけでも、孝行しているのかなと勝手に解釈しております。
▼雨にたたられた三日間ではありましたが、鯛ノ浦小教区が誇る石造りの巡回教会「頭ヶ島教会(かしらがしま)」教会だけはビデオに収めてきました。迫害を逃れて当時無人島だった頭ヶ島に住み着き、のちに文化財にまでなった石造りの教会を建てたご先祖の熱意は、重みとなって教会を支えていました。
▼ビデオクリップでも触れたのですが、積み上げられた石には「漢数字」が掘られています。決して、絶対に、ヨーロッパ建築にはあり得ない「日本文化の受容」をそこに見た思いです。欧米のキリスト者があの文字を見たら、「飾り・彫刻」と思ってしまうのでしょうか。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===