待降節第4主日(ルカ1:26-38)

いよいよ、主の降誕を目の前にしての日曜日になりました。「主よ、来てください」という声を、心の中でさらに確かなものにしていきたいと思います。

母となった女性の気持ちというのは、どんなものなのでしょうか?出産を本当に間近にひかえた方の気持ちを一度聞いてみたいなあと思います。ブルーになるとも言われたりしますが、ここでは新しいいのちともうすぐ出会える喜びについて考えてみたいと思います。

正直に話すなら、間近に出産をひかえたお母さんの体験を、実際にどなたかに話してもらえたら、今週のすばらしい準備になると思っております。そのような相談も誰にもしておりませんので、男性の私が考える面を紹介いたします。

お母さんに成り代わってということができないまでも、似たような時間の過ごし方や体験を探してみました。するといちばん身近なところに、ちょうど良い体験を積みましたので、みなさんと分かち合いたいと思います。

21日土曜日は、長崎から合唱団のみなさんが太田尾教会においでになって、コンサートを開いてくださいました。土曜日の午前中の心境は、もしかしたらお母さんの心境に似ているかも知れないなあと思ったのです。

土曜日の午前中、本来なら日曜日のお説教のためにしっかり原稿を用意する時間のはずです。同じような時間の過ごし方をしましたが、やはり心は、昼から行われるコンサートで落ち着かないのです。不安ということではありません。午前中の数時間が、その何倍にも感じられるのです。

コンサートそのものは、合唱団の側から突然のキャンセルが入らない限り、たしかにその時間に始まるわけですが、どうしてなのでしょうか、待っている側はその時間が来るまで、どうしても落ち着かないのです。待っている私が慌てても仕方のないことですが、同時間を過ごしてよいのか、戸惑うのでした。

もしかしたら、このような気持ちが、出産をひかえたお母さんの心境なのではないでしょうか。出産はもう目の前です。どんな時間の過ごし方をしても、生まれてくる時間になれば生まれてくるのですが、やはりそうはいっても落ち着かない。不安なのではなくて、新しいいのちと対面する喜びの時間が、待っている時間がすごく長く感じられる。そういうところではないでしょうか。

精一杯考えてみましたが、まるっきり外れていたら申し訳ありません。意外と、もっと単純で、私が思い描くようなものではないのかも知れません。「出てくるときはポンと出てきてね。私はなーんにも心配しないんだから、ぐずぐずしたらダメよ」な〜んて思っているのでしょうか?

少し、夢を描きながら待っていることにいたしましょう。今日の朗読で天使のお告げを聞いたマリア様も、これから母となり、誕生までのあの落ち着かない時間を過ごされるのです。出産までのあの落ち着かない時間を通して、神様は何を教えてくださるのでしょうか。

私は、自分がコンサート開始までに過ごした数時間を思い返すときに、落ち着かない原因はいったい何なのだろうかと、それこそ落ち着かない中でも考えてみました。そして出てきたのが、「あ〜、もしかしたら、自分はうれしくてうれしくて、落ち着かないのかも知れない。神様からのプレゼントは、落ち着きを失うほど大きいのかも知れない」と考えたのです。

新しいいのちの誕生、それは、この世で得られるどんな喜びよりも大きいのではないでしょうか。いろんな喜びがあるかも知れませんが、それは突き詰めると、私たちが工夫して手に入れるもの、努力の先にある喜びだと思うのです。けれども、いのちの誕生だけは、私たちが望むように作り上げたりできるものではありません。神様のご計画の中で、神様が二人を通して、お授けになる喜びだと思うのです。

「あなたの親類のエリザベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている」。マリアは、ひとまずエリザベトの喜びに心を向けました。いのちを授かる喜びを与えられたエリザベト。神様から授けられた喜びに満たされた彼女のように、私も神様から喜びをいただける。落ち着きを失うほど大きな喜びが目の前にある。神様から大きな喜びをいただくまたとないチャンスでした。

もはや、マリア様に迷う理由などありません。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。神様が特別に用意してくださった喜びに招かれたマリア様は、神様に最高の返事をなさったのでした。

いよいよクリスマスを目の前にした私たち。私たちの生活の中で、イエス様の誕生は落ち着いていられないほどの大きな喜びとなっているでしょうか。神様が授けてくださる喜びとなっているでしょうか。それとも、私たちが準備して手に入れる喜びと同じ程度でとどまっているのでしょうか。

主の降誕の喜びを心に受ける私たちは、この日だけは誰もが母となった気持ちを味わってよいのではないか、わたしはそう思うのです。「ぐずぐず言っちゃダメよ。わたしは何も心配なんてしないのだから」というようなクリスマスを迎えることのないように、残る二日間を、祈りのうちに過ごすことにいたしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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教会学校の最後の週に、「クリスマスの喜びや、クリスマスの大切さって、毎年参加して、少しずつ分かるようになってくるんだよ」と話しました。
▼その例として、「小学校のお勉強も、六年かけているでしょ」といって比較してもらったのだけれども、あれでよかったのかしら?とあとになって思い返します。
▼六年でも理解し尽くせない小学校の学習課程。神様の永遠の昔からのご計画「主の降誕」が、人生すべてをかけてクリスマスのミサにあずかっても、はたして理解できるものなのでしょうか。
ヨハネ福音記者は、イエス様のことをすべて書こうと思えば、世界もそれを収めることができないであろうと仰っています。この神秘を、私たち自身が幼子の心に立ち返って、迎え入れたいものですね。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===